2015年2月8日礼拝説教 「走り寄る神」

               2015年2月8日

聖書=ルカ福音書15章11-24節

走り寄る神

 

 主イエスは「ある人に息子が二人いた」と語り出されます。弟息子から遺産分配をしてくれと申し出があった。遺産分配は親が死んでからのことで、ユダヤ社会でも例外ではない。ところが、弟はすぐに分配してくれとせがんだ。はねつけていた父親も根負けして財産を分割して、これがお前のものだと分けてやった。弟はすぐにそれを金に換えて遠い国に旅立って行った。弟は才能のある人ではなかったか。農業するしか能のない父を小馬鹿にしていたかもしれない。ここにいる限り律儀な兄がいる。自分の居場所がない。田舎で埋もれるのは嫌だ。青年期特有の野心もあった。都会で才能を開花させて豊かで華やかな生活を夢見て家を出て行った。

 胸ふくらませて都会に出て行った弟は、すぐに厳しい現実に直面する。自分の弱さです。「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」。快楽の誘惑に負けてしまった。田舎で過ごしていた彼にとって見るもの聞くもの魅力的でした。自分でも気がつかなかった欲望があり、それを抑えることが出来ない。神が禁じていたにもかかわらず魅力的であった木の実に手を伸ばしたアダムとエバの罪と本質的に同じものでした。アダムとエバの罪を追体験することになった。次に、直面したのは生活の糧を得ることの困難です。「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」。飢饉は周期的にやってきた。農家はいろいろな方法で克服してきた。そんなことは気にもしなかった。お金が有りさえしたら何とかなる。無一文になった時、金を貸した人のところを訪ねても、手を貸す人など一人もいない。孤独を本当に味わった。

 さらに知ったのは人間の冷たさです。彼は豚飼いになる。ユダヤ人は豚を汚れた動物とし食べないし飼うこともない。自尊心も失っていた。背に腹は代えられない。落ちるところまで落ちてしまった。そういう人に対して世間は冷たい。「食べ物をくれる人はだれもいなかった」。飢饉の中、皆生き延びるために精一杯です。エゴイズムが支配している世の中に一人突き放された。この弟息子の姿こそ、神から離れた人間の姿です。

 しかし、この悲惨のどん底で自分を取り戻した。悲惨のどん底に立つ、つらいことですが人間にとって大切な時です。人生順調にいっている時、誰も信仰とか生きる意味など考えない。悲惨のどん底で、人は自分を見詰め、自分の本当の姿に気づく。つらい時こそ最も大切な時なのです。「彼は我に返って言った」。「我に返った」とは、自分の惨めな姿を悟り、自分を取り戻したことです。何も頼るものがない。父を離れたら支えるものが自分の中にないことを悟ったのです。彼は父親を思い出す。「そうだ、自分には父がいた」と。父から離れていた。これが罪の認知で、悔い改めの第1歩です。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。…と』」。「ここをたち」という言葉に、強い決意が込められています。もう帰る以外ない。新しい一歩を踏み出した。ここに悔い改めが始まっている。

 他方、この息子を迎える父親の姿が生き生きと描かれています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。村の境にみすぼらしい乞食のような男が姿を現した。行き交う人も、これがあの弟息子だとは気が付かない。ただ父親だけが見つけた。おそらく弟息子が家を出て行った翌日から、いつか帰ってくる、必ず帰ってくると、毎日、門の前で待っていた。だから、まだ遠く離れて誰も認めないみすぼらしい男の姿の中に、我が子の姿を認めたのです。「憐れに思い」とは、はらわたが突き動かされるような熱い思いです。「我が子だ」と、父は走り出します。首を掻き抱いて接吻する。息子が膝をかがめて許しを乞う前に、父の方から息子を抱いて覆っているのです。

 父に覆われ抱かれる中で、息子は悔い改めの言葉を語り出す。父に抱きかかえられる中で彼は語り出した。もう父は赦している。その赦しの中で罪の告白が出来る。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と。道々考えながら用意してきた「雇い人の一人に…」は言い忘れてしまったのか。父は言わせない。父はしもべに言いつけます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。…」。ボロボロの惨めな服に代えて父の愛と恵みで覆われたのです。指輪は子としての徴ですが食べることに窮した時に売り払ってしまった。もう一度、子として認知された。そして、喜びの祝宴が始まったのです。「死んでしまったと思っていた。よく生きて帰った。本当によかった」。父親は何度も何度もそう言って息子を抱きしめていたのではないでしょうか。

 これが神の元に帰ってくる罪人を迎える神の姿なのだと、主イエスは言われた。ある聖書の学者は、この弟息子を悔い改めさせたのは父の業だと言います。彼は父の元に帰る時に、赦されるかどうか心配しながら帰ったろうか。そうではない。帰ったならば赦してもらえる。そう確信していた。それは生まれた時から、彼の心の中に父のイメージが焼き付けられていたからです。父の元には赦しがある。そう確信したから勇気をもって立ち帰った。そして、その通りになった。弟息子の姿を認めて走り寄る父の中に、罪人の悔い改めがあるのです。悔い改めの言葉は弟息子が語るが、弟息子を悔い改めさせたのは父の働きでした。主イエスは、神はこのように私たち罪人を迎える神だ、ここに神の愛の姿がある、と語られたのです。