2015年1月18日礼拝説教 「塩も塩気がなくなれば」

              2015年1月18日

聖書=ルカ福音書14章34-35節

塩も塩気がなくなれば

 

 主イエスは「確かに塩は良いものだ」と言われた。塩は動物にとり必須のものです。人間の体も塩が欠けると病気になる。人間生活に欠くことの出来ないものです。主イエスは塩をもってキリストの弟子としての生き方を教えているのです。主イエスは群衆に向かって語られた。キリストの弟子として生きることは、良いことだ、立派なことだ、と。しかし同時に、ここに主イエスの皮肉をも感じ取れる。キリストに従って生きることは決して華やかなものでも浮ついたものでもない。塩はすばらしい多くの働き、重要な働きをする。しかし、大量には要らない。僅かでいい。一掴みでいい。主イエスが本当に求めているのは、ごく僅かな人でいい、主イエス・キリストは本当に塩のような働きをする人を求めておられるのです。

 塩の働き、効用を考えてみます。塩の働きの第1は、味付けです。味噌汁みたいなものだけではありません。甘いあんこのようなものでも隠し味として欠かせない。どんな料理にも塩は欠かせない。いずれの場合も少量で十分です。不可欠ですが多すぎては塩辛くて食べられなくなる。塩は少量で十分に効果を発揮する。このような塩の役割が世にあるキリスト者に求められている。時折、聞く。日本ではキリスト者の数が少ないから社会にインパクトを与えられない、少人数だから社会に大きな影響力を与えられない、と。しかし、人数が少ないからインパクトを与えられないのではない。塩はごく僅かで十分です。社会的インパクトを与えられないのは数の少なさではなく、塩の役目が果たされていないからではないか。

 塩の働きの第2は、腐敗防止です。ものを腐らせない防腐剤の働きです。野菜を塩漬けると漬け物になり長期保存が出来る。料理の時よりは多く必要ですが、それでもそんなに大量には要らない。この社会は罪人の社会、罪人の世です。キリスト者がこの社会の中で生きる1つの役割は、腐敗防止の役割が求められている。キリストを信じる者は、神が義なる神であることを知っています。この罪人の社会の中で、義なる神のいますことを指し示していくことが、キリストの弟子に求められているのです。

 塩の働きの第3は、浄める働きです。浄める働きはあまり語られない。日本社会では浄めとしての塩の働きはよく知られている。仏教のお葬式の後で必ず塩が配られます。キリスト教は葬式を穢れと理解しないので塩は配りません。レビ記2章13節は「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」と記す。預言者エリシャは塩で泉の水を浄めた。浄めるという働きは非常に重要です。キリスト者はその存在によって世界を内から浄めていく。腐敗防止だけでなく、この世界を神の国とするため内部から変えていくのです。浄めるとは積極的にこの世界を変えていく働きです。

 塩の効用を見てきたが、主イエスがこの箇所で語られたことは塩の勉強をすることではない。「塩味を失うな」と言われている。「もう、あなたは塩なのだ」、「塩として存在しているのだ」。キリスト者はすでに塩とされている。このことが大前提です。主イエスは「塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか」と言われた。今日、私たちは「塩気を失った塩」をほとんど知らない。私たちの周囲にあるほとんどの塩は精製塩です。そのため、主イエスのお言葉の意味が分からなくなっている。精製塩は99%、100%塩分、純粋な塩化ナトリュウムです。湿っても、少し古くなっても塩気を失うことはほとんどありません。

 主イエス時代の塩は「塩の海」、死海から採ってきた塩であった。塩の海とはよく言ったもの、塩の固まりの中に水があると言っていい。普通の海水の6倍、27%の塩分です。人間も沈むことが出来ない。この塩分の中にいろいろな栄養分が溶け込んでいます。栄養価が高いということは多くの不純物を含んでいることです。しばらく土の上などに放っておくと塩気が抜けてしまう。しょっぱさがなくなってしまう。もうこれはどうにもならない。塩として使いものにならない。肥料になるかというと、塩気が幾らかでも残っていたら土が焼けて畑を駄目にしてしまう。道にでも捨てる以外ない。これが「塩気がなくなる」ことです。使い物にならない。

 キリスト者にとって塩気とは何か。塩気の意味を考えねばならない。信仰者としての生きる意味をしっかり持って生きることです。キリスト者の塩気とは、キリスト者としての最も基本的な生き方をしっかり自覚することです。信仰者として生きるとは、神と神の国を追い求めて生きる生き方です。この世が持ち合わせていない神の国の価値観に生きることです。

 世の人々はこの世の中のことだけで忙しくし、世の中の価値観に捕らわれて生きています。勿論、私はこの世の価値観が一切意味がないなどとは決して思っていません。すばらしい生き方をされる方もたくさんいる。しかし、どんなに優れた価値観であっても、根本的にはこの世の視座に立つ考え方なのです。この世の価値観に立ち、神を人生の計算の中に入れていない。神と神の国のことはこの世の人たちの思いには上ってこない。

 それに対して、キリスト者は神と神の国を考えなければ、この世界の存在自体が意味を見失うと考えています。人間は人生を考え、人生設計をする時に、神の存在を考慮に入れなければ意味あるものとはならないのです。人は、神と神の国を見詰めなければ意味を見失ってしまう。私たち信仰者の塩味とは、神と神の国を目指して生きるという生き方をもって一筋に生きることです。この生き方を見失ってしまうならば、キリスト者とは名ばかりで塩味を失ったものになり、使い物にならなくなるのです。