2015年1月4日礼拝説教 「賛美する教会の形成」

               2015年1月4日

聖書=エフェソ書5章19節

賛美する教会の形成

 

 今年の浜松教会の年間標語は「賛美する教会」とした。今まで礼拝の中で割合多く「讃美歌21」を用いてきました。今年は基本的に「讃美歌21」へと変更したいと願っています。定期会員総会で承認し、数ヶ月の猶予をおいて4月から基本の讃美歌を変えさせていただきたい。現行の「讃美歌第1編」の中からも良いものはそのままに用いてまいりたい。

 今朝お話ししたいことは賛美の重要性です。賛美歌はキリスト教礼拝にとって生命的に大事なものです。添え物ではありません。礼拝は賛美だということです。礼拝には聖書朗読と説教が欠かせないと思っている。しかし、これは思い込みです。礼拝の基本とその中心は神賛美なのです。聖書朗読と説教が欠かせないのは、この地上の教会でのことです。天上においても贖われた者たちの集いがある。天上の教会です。そこではもはや説教はない。祈りと賛美です。黙示録の中に24人の長老が登場します。旧約と新約の贖われた民の代表で、彼らは神と小羊を賛美し、新しい歌を歌うのです。私たちは今、説教に一生懸命になっていますが、これは地上の教会限りのことで、天上でも地上でも礼拝の本質は神賛美なのです。

 今日、礼拝理解で取り違えが起こっている。私たちは礼拝で一番大事なのは説教だと思い込んでいる。これは地上の教会限りのことです。未信者に福音を伝えねばなりません。信じた者も未完成ですから、いつもみ言葉によって教えられ正されていかねばなりません。その限りで説教は必要不可欠ですが、天に挙げられて完全に聖化された人には説教する必要はない。求道者もいない。神に説教などは出来ません。地上の教会と天上の教会を貫く礼拝の本質は説教ではなく、賛美と祈りです。礼拝とは「神を賛美し、神を拝むこと」です。神賛美こそ礼拝の本質です。

 次に、賛美は祈りであることです。賛美と祈りは基本的に同じです。宗教改革者カルヴァンは、礼拝を「祈りの式」と表現しました。礼拝の中に祈りがあると言うよりも、礼拝全体が祈りなのです。その中で賛美はまさに「歌う祈り」と言っていい。旋律を付けた祈りです。祈りも賛美も神に向けられ、神に捧げられます。私たちの祈りを聞き、賛美を受け止めてくださるお方は神と小羊です。礼拝において賛美を歌う時、神に聞いていただく、神に捧げるという自覚と意識が大切です。自己陶酔は賛美ではありません。礼拝の賛美は神に捧げる祈りであることを忘れてはならない。

 改革派教会の教会規程の中に「礼拝指針」がある。礼拝についてのガイドラインです。その礼拝指針に「公的祈祷の要素」と言う項目がある。「公的祈祷には、賛美、感謝、悔い改め、罪の告白と赦しの確信、祈願、とりなし、捧げ物(献身)などの要素が含まれる」。これら公的祈祷の要素は、賛美の要素でもある。公的祈祷の要素を覚えて礼拝の賛美を整えることが必要です。祈りだけでなく、会衆の賛美全体がこの祈りの要素を担っていくのです。讃美歌第1編には、この礼拝の祈りの全体性が希薄でした。

 神を神として賛美し、神による天地創造の恵みを高らかに歌います。罪を悲しみ真剣な悔い改めを歌います。キリストの贖いの恵みと祝福とを余すところなく声高らかに歌います。日ごとの生活、苦難の中での救いを求め、歌います。信仰生活でのみ言葉の恵みと祝福を祈り歌います。聖書の物語を歌い継ぎます。隣人への救いとこの世界の平和を真剣に求めて願い歌います。そして感謝をもって私たちの心からの献身を歌います。祈りと賛美が一つに結ばれて神の御前に献げられるのです。

 さらに、賛美は信仰の告白です。つまり信仰の表明であるということです。ローマ書10章10節「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と記されています。この「公に言い表して」という訳された言葉が「ホモロゲオー」です。「同じ心になって、同じ言葉を語る。相手の言ったことに同意を言い表す」という意味です。祈りの最後に一緒に「アーメン」と言います。賛美の後に一同で「アーメン」と歌います。賛美歌は会衆全体が同じ信仰の言葉を心を合わせて歌い、祈りとして献げ、「アーメン」とするのです。賛美は信仰の共同の告白行為です。

 ここから賛美歌の歌詞が大きく問われるのです。現在の讃美歌第1編には、たいへん残念ですが多くの天皇用語、神道用語を除ききれずに色濃く残っています。ある改革派教会の先輩教師は一生懸命、この視点からの問題提起をしています。これは言葉の1つ2つを置き換えて簡単に済む問題ではないと、私は受け止めています。注意して読むとたくさんあるのです。聖書的な信仰の告白、正統信仰の告白として本当に「アーメン」と心から賛美することができるものへと、変えていくことが必要でしょう。

 同じ視点から、不快語や差別語の問題も取り上げることが必要です。さらに言葉の古さ、分かりにくさも取り上げていかねばなりません。時代によって言葉は変わってきます。今まで「差別用語」と思わなかった言葉も、時代によって差別語だ、不快語だと変わってくる。今まで十分に理解できた言葉も、何十年かすると「分からない」と言う世代が増えてきます。昨年、あるご家庭の墓前記念会で家族の方々と一緒に讃美歌312番を歌いました。最もポピュラーで知られているものとして選びました。式が終わりました。ご遺族のある方から「などかは下ろさぬ」の「などか」って、どういう意味ですか、と尋ねられた。312番が「もう分からなくなっている」、ハッとした一瞬でした。礼拝は、求道者を招き、若者たちも一緒に同じ言葉で神を賛美するのです。互いに分かり合う言葉で、アーメンと締めくくることが出来る会衆の賛美となってまいりたいものです。