2014年12月21日礼拝説教 「私たちの間に宿られた神」

             2014年12月21日

聖書=ヨハネ福音書1章14-18節

私たちの間に宿られた神

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。このヨハネ福音書3章16節は聖書の中心的メッセージであると言われています。神がこの世界を愛してくださったという神の愛のメッセージです。クリスマスは、この神の愛が具体的に現された時です。人間同士の愛も何らかの形を伴わねば分からない。バラ1本でも愛が示されます。「神は愛」と語られるだけでなく、このように愛しているとはっきり分かる形で示されたのです。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。ここから「受肉」というキリスト教用語が生まれた。ここに神の愛が具体化された。「言」は永遠から存在し、神と共にあり、神である方です。そのお方が「肉となった」。「肉」とは、弱く、もろい、死によって限界づけられる人間を意味しています。神の御子であるお方がマリアから私たちと同じ魂と体を持つ一人の人間になられたことです。「宿る」とは天幕を張るという意味です。神の御子である方が、私たちと同じ人間となり、ひととき、この地上においでになり、歴史の中を歩まれたのです。これがクリスマスの出来事です。

 「言は肉となって」の文章は、ユダヤ人には驚天動地のものでした。ユダヤ人にとって、神は高きにいます目に見えない神で、目に見える神は偶像として厳しく排除してきた。彼らにとって生きた人間を神とすることは神聖冒涜の罪でした。自分を神と同一の者として語られた主イエスを神を汚す者だと強く非難した。ユダヤ教伝統では「人となった神」は受け入れることは出来ません。この言葉はユダヤ教に向けられたキリスト教の独立宣言です。キリスト教信仰の中心は、永遠の神が人となったことにある。

 クリスマスの1つの意味は、神が見える神となったことです。神は本来、目に見えません。「永遠、普遍、無限の神」です。しかし、神を見ることが出来る道が開かれた。時折、教会に来て意地悪な質問をする方がいます。「神がいるのなら、見せてくれ」と。私はこのような質問にはお応えしません。神や信仰をからかっているからです。しかし、クリスマスの出来事において、神は見える神となられた。それがイエス・キリストです。

 主イエスは、私たちと同じように女から生まれ、人間としての魂と肉体をとられました。このお方は幼児から少年に、少年から大人へと成長します。この人となられたイエスの記録が福音書に記されている。空腹を覚え、疲れ、悲しみや嘆きも体験します。涙を流し、怒ることもあった。あわれみに心を動かされた。人間の仲間としてこの世界に来て、私たちの中で生活し、住まわれた。この主イエスの生涯を福音書によって知った方は、神を見たのだ、神を見ていると言っていいのです。

  第2に、人となられたイエスにおいて神が、具体的に私たちの側に、私たちの傍らにいる神となってくださった。これが「宿る」という言葉の最も大切な意味です。共にいる、一緒にいることです。主イエスは「インマヌエル」と呼ばれています。意味は「神、共にいます」。旧約時代、神は幕屋や神殿という形で、ご自身の存在を人々に現してきました。旧約でも神は「インマヌエル」の神でした。しかし、終わりの時に、神の独り子が人となられた。ここで「インマヌエル」の意味が大きく転換します。

 ある聖書学者は、クリスマスは神ご自身が身を投げ出してくださった出来事だと言う。「丁度、母親が火事で火を浴びている子どもの上に身を投げ出すように、大波に襲われた子のために、父親が身を投げ出して救い出すように、神が身を投げ出してくれた出来事だ」と記している。神から離れて滅びへの道を歩み出した者のために、神が身を投げ出してくださった。

 主イエスこそ、私を愛して、私のために身を投げ出して救う「私の神」となってくださった。私たち一人ひとりを愛し、身を投げ出して「あなたの神」、「私の神」になってくださった。孤独を味わう時、病む時、つらさと痛みを味わう時、死の谷を歩む時、「共にいて下さる神」となられた。イエスは私たちの傍らにいる神となられたのです。これが「宿る」ことです。

 第3に、使徒ヨハネは「わたしたちは、神の栄光を見た」と語る。ここで言う神の栄光とは、どんなものなのか。金銀で美しく装飾された荘厳な神殿の美しさか。ヨハネが、主イエスの中に見た神の栄光は神殿のきらびやかな栄光ではない。貧しくなられた神の栄光です。イザヤ書53章に記されているしもべの姿の栄光です。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている……」。神が身をかがめて貧しい人となられ、しかも人々に見捨てられ、罵られて、ムチ打たれ、十字架に掛かって死ぬという、すさまじいものです。主イエスの十字架の救い主としてのご生涯が神の栄光なのです。ヨハネは、ユダヤ人からは恥であるとしか受け止められない主イエスのご生涯、とりわけその終わりの十字架に神の栄光を見るのです。

 主なる神が貧しくなられた。ここに神の栄光がある。その栄光の内容は十字架の救い主です。神の子としてのキリストの栄光は、しもべとしての姿の中に隠され、包まれていました。ですから、それを「見る」ためには、信仰の目、信仰の視力が必要なのです。キリストの栄光を「見る」ことは、肉眼の目では見ることはできない。ヨハネの語る「見る」は、信じて見ることです。信じて見る時に、見る影もない主イエスの姿の中に神の恵みと神の真理を見るのだと、ヨハネは証ししているのです。イエス・キリストは、罪人を愛する神の愛、神の真実そのものが形をとって現れたお方です。罪人を救って下さる神の愛と真実が形をとって現れたお方なのです。