2014年10月12日礼拝説教 「もう少し待ってください」

            2014年10月12日

聖書=ルカ福音書13章6-9節

もう少し待ってください

 

 この個所は12章54節の「イエスはまた群衆にも言われた」という群衆への説教の結論部分です。主イエスは、時を正しく見分けて訴える人と仲直りをすべきこと、苦難の問題の結論として「悔い改めること」を勧めました。神を信じて悔い改めをする勧めです。悔い改めの勧めとして、主イエスは1つの例えを話されました。ぶどう園の所有者は神です。

 主イエスが「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき」と言われた時、聞いていた人たちは、ああこれは自分たちを指していると悟った。ぶどうもイチジクも、旧約では神の民イスラエルを指すものでした。主人が主人の意志でイチジクの木を植えたのです。たまたま生えてきたのではなく、主人の意志で植えたのです。この主人は1本のイチジクの木を植え、それが実を結ぶことを願っているのです。ここでは1本に意味があります。一人という独自性、一人の個別性、一人ひとりの悔い改めが期待されている。多くのぶどうの木が受ける配慮を同じ配慮を受けた。肥料をやり、水を注ぎ、細心の注意と配慮をしてきた。

 この木にふさわしい実の収穫を期待して植えられました。主人が「実を探しに来た」と語られている。果実の木は植えて翌年に実がなるものはない。「桃栗3年、柿8年」と言われる。イチジクの木は多くの場合、種からの実生ではなく、小枝を切って土に挿す挿し木で増やしていくようです。すると3年ほどで実がつくようになる。このイチジクの木もそのように植えてから3年ほどすると実がなり始めると期待されていた。ぶどうの木と同じに肥料をやり、水をやって世話をした。ところが3年目で実が稔らない。もう一年、もう一年と3年待ってみたが稔りがない。

 ついに主人は園丁に言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」。この言葉から主人は短気な性格だと思うかもしれない。決してそんなことはない。イチジクの木は植えてから実がなり始めるまで3年かかる。そして実がなる頃になって楽しみにして来てみたら、何もなっていない。もう一年待とうと手入れをして1年後に来てみたら、なっていない。3年目になっても何もない。主人は決して短気ではない。3年間ジッと忍耐して待ってきた。さすがに忍耐深い主人が「切ってしまえ」となったのです。

 ところが、ここに「園丁」が登場します。園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁は、主人からぶどう園をあずかって実際に栽培する人です。実際に面倒をみてきたこの1本の木に対する愛着があった。この段階になっても、イチジクの木を見捨てない。「ご主人様、もう一年待ってください」と言う。この園丁の中に、私たちはキリストを見る。この1本のイチジクの木が切り倒されないでいるのは、園丁であるキリストの執り成しがある。キリストが「待ってください」と執り成している。

 ある聖書学者はこの個所に表題を付け「執行猶予」としました。主人の判断は既に下されている。「切り倒せ」です。園丁も主人の判断をくつがえしているのではない。ただ、園丁はすぐに切り倒すのでなく、もう一年猶予してくれ、時間をください、と言う。特別に手入れして稔りを待ちましょう。それで駄目なら切り倒しますと1年間の執行猶予なのです。説教題を「もう少し待ってください」とした。説教を作りながら、この説教題は拙かったと気が付いた。「もう少し」ではない。あと1年です。私たちは「もう少し、もう少し」と無限に延ばしてしまう。そうではない。期限が切られている。この1年は、365日の1年ではなく、黙示録が語る象徴的な意味での1年だと理解している。しかし、来年の収穫までの時、期限が限られている。その時までに実がなっていないなら切り倒されるのです。

 稔りとは、悔い改めと神への信仰です。この園丁であるキリストの願い、キリストの執り成しは、主人によって聞き入れられました。しかし、このイチジクの木が、その次の年、実を稔らせたかどうか、主イエスはそれ以上は何もここではお語りになっておられません。結論を記さないのです。私たちが、一人ひとり答えを書かねばならないのです。

 悔い改めとは、自分の行いや生活を改めることではない。罪を犯さないように小心翼々としておびえて生きることでもない。神に向き直ることです。神こそ自分の主であることを認めて、神に向き合うことです。しかし、決して簡単なことではない。簡単なことだったら、実を稔らせるのに何年もかかりはしない。基本は私たちの視線の向きです。どこに向いているのか。私たちの視線は、いつも自分に向いている。自分のことだけ見ている。自分の関心、自分の利益、自分の家族、自分の損得。なんで自分だけ、こんな損な巡り合わせなのか、自分だけこんな悲しい目に遭うのかと、自分にだけ焦点を当てている。その結果、劣等感に悩み、うぬぼれ、自慢し、反対に人をさげすみ、軽蔑する。全部、焦点を自分に当てている結果です。

 この自分に向いている目を、神に向けてみる。これが悔い改め、方向転換です。すると分かってきます。神が私を愛していること、神が私を愛して赦しの手を差し伸べていることが分かってきます。今日の私たちもこのイチジクの木と同じではないでしょうか。神は、私が神に向かって生きることを待っておられます。罪を悔い改め、神と和解して、神と共に生きることが「実を結ぶこと」です。神はご自分の独り子を十字架につけて和解の用意をして、神に立ち帰ることが出来るようにして、待っておられます。