2014年10月5日礼拝説教 「苦難をどう理解するか」

             2014年10月5日

聖書=ルカ福音書13章1-5節

苦難をどう理解するか

 

 毎日ショッキングなニュースに取り巻かれています。毎日のように惨殺事件が起こったと報道される。アメリカでの9・11のテロ、その後に続く戦争のすさまじい被害も報道される。2011年3月11日の東日本大震災、福島原発の被災、最近の広島の土砂災害、御嶽山の噴火など悲しい出来事が続いている。これら事件や事故に直面すると、多くの人はこれをどう理解していいのか、思い悩む。こんなことがあっていいものか。何故だ、という叫びが飛び出してくる。家族を、家や仕事を失った人たちの痛みの中からの悲痛な叫びには、どうお応えしていいのか分かりませんでした。言葉を失ったと言っていい。

 主イエスの時代は、大ニュースが次々に飛び込むような時代ではなかった。それでも人々を驚かせる事件は起こる。主イエスが群衆に話していた時です。丁度その時に、人々が驚きをもって主イエスの元に「来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」。総督ピラトがエルサレムの町の人たちに役立つことだからということで、水道の施設工事の費用に神殿の金を流用しようとした。しかし、神殿のお金は聖なるお金です。それを水道工事という世俗の事業のために用いるのに強硬に反対した人たちがいた。その反対運動をピラトが弾圧した。抵抗した人たちは神殿に逃れた。ピラトは兵士を送って彼らを祭壇の傍らで殺してしまった。その時に、祭壇の犠牲の動物の血の中に反対運動をして殺されたガリラヤ人の血が飛び散り混ざるということが起こった。

 犠牲の動物の血は、罪に対する神の怒りの火に燃やされるのです。人の罪を羊や牛に転嫁させ、罪を担った動物は祭壇で血を流し殺され、燃やされる。罪に対する神の怒りがそこで燃えるのです。その結果、犠牲を捧げた人は赦しを受ける。ユダヤ人だったら決してしないが、相手は総督のピラトとローマの兵士です。神殿だから、祭壇の近くだからと言って遠慮も何もありません。反抗する人たちを殺し、その血が飛び散り、祭壇に流れ込んだ。そこで、多くのユダヤ人はこのガリラヤの人たちがこんな災難に会ったの本当に罪深い者たちだったから、こんな滅びの姿を身に受けなければならなかったのだと噂しあった。そして今、イエスの元に来てこの事件を知らせ、どのように考えたらいいのかと尋ねたのです。

 人々が噂しあっていたもう1つの事件があった。関連した出来事であったようです。シロアムの池の傍らの高い塔が倒れて多くの人が亡くなった。シロアムの塔とは、エルサレムのシロアムの池の畔に建てられていた水道工事用の櫓か、あるいは水を汲み上げる揚水塔であったかもしれない。この塔の崩壊によってその近くにいた18人もの人が巻き添えになって死ぬという事故が起こった。この時も人々は噂し合った。こんな事故に巻き込まれて死ぬなんて、彼らはよほど罪深い人たちであったんだろうと。

 皆さんは、このような出来事をどう受け止めるでしょうか。悲惨な事件や事故が起こると、人は必ず原因や理由を問おうとする。何故だ、と。別の言い方で言うと「因果を問う」ことです。何故、地震や津波が起こったのか。何故、多くの人の命が奪われたのか。何故、東北が。何故、福島が、という問いは、未だに答えることが出来ません。

 ユダヤの人々は「彼らは罪深い者だったから」と考えた。旧約のヨブ記の中でエリパズという人がヨブに言います。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか」と(ヨブ記4:7)。ヨブは神の前に正しい人でした。多くの財産を持ち、息子や娘もたくさんいた。ところがヨブに不幸が突然、襲いかかる。財産が奪われ、息子や娘も失い、本人もひどい皮膚病に冒される。妻も「神を呪って死んでしまえ」と言って去ってしまう。その時に、友人たちが慰めに来て語った言葉が先の言葉でした。あなたには隠れた罪があったから、こうなったのだ。因果応報なのだと。日本では前世の因果というような言い方もします。

 しかし、主イエスはそれに対して、「決してそうではない」と言われた。神は人に罰を与えるようなお方ではない。神は人を滅ぼすお方ではない。キリスト者であっても事故で死ぬことはある。不遇な死を遂げることもある。巡り合わせが悪かったのでもない、彼らだけが特別に他の人たちよりも罪深いというのではない、罰が当たったというのでもない。どんな死に方をしたかによって救いがあるわけではなく、信仰によって救われるのです。このことをしっかりと押さえておかねばなりません。

 ヨブ記では、突然の出来事の不当さを問うヨブに対して、ずっと沈黙を続ける神が記されます。ヨブが何故、悲惨な目にあったのか、その答は与えられません。ヨブ記の神の答え同様に、主イエスもこのことについてはまったく答えません。因果を探っても不毛な結果に終わるだけです。不毛な議論をするのではない。そうではなく、「悔い改めなさい」と勧める。自然が神のものであること、自分勝手に出来ないこと、科学技術で神の領域に踏み込むことの出来ないこと、人間の無力と神への畏れを回復すること、これらへの警告を読み取っていくのです。それが悔い改めです。「悔い改め」は反省と違います。悔い改めは、神がいなければ成立しません。「神へと向きを変える」ことです。神に背を向けていたところから神に向き直って、神に立ち帰るのです。苦しみの中での慰めと救いは、苦しみの原因を探り求めることによってではなく、神と本当に向かい合うことによってこそ与えられるのです。理屈で納得するのではなく、神の支配を認めて、神と向き合うところで、本当の慰めが与えられるのではないでしょうか。