2014年9月28日礼拝説教 「正しく判断しなさい」

              2014年9月28日

聖書=ルカ福音書12章54-59節

正しく判断しなさい

 

 主イエスは、取り巻いている「群衆」に語りかけます。「KY」という言葉がある。何のことか分かりませんでした。何かの拍子に新聞を読んでいたら「空気を読めない」と言う意味だと知りました。周囲の状況を判断できる、人の気持ちを読むことが出来る、この個所は「読む」に関わります。主イエスは言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」と。この時代、今日のような正確な天気予報はありません。しかし、人々は天候の変化に無関心ではなかった。観察をし、変化を予測した。熟練した農夫や漁師はある程度正確に天候を読むことが出来た。その観察結果は、ほとんど間違いがなかった。これは洋の東西、日本でもユダヤでも変わらないことでした。

 主イエスは、あなたがたには気象を正しく判断する力がある、複雑な気象も読み解くことが出来る、賢いと言われた。そして次に言われた。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」と。「偽善者よ」とは、きつい言葉です。主イエスは、今までこの言葉はファリサイ派、律法学者に対して用いて来た。ここでは一般民衆に向かって語られた。なぜ、こんなきつい言葉を一般の人に向かって言われたのか。「偽善」(ヒュポクリス)という語は、古代の演劇俳優が仮面をかぶって演じたところから来ている。

 今は主の周りに多くの人が集まっている。表面はキリストの弟子のようだ。しかし、仮面を付け替えるようにやがて手の平を返してしまう。イエスの周りに集まった「群衆」が、イエスが捕らえられると「十字架に付けよ。十字架に付けよ」と叫び出す。定見がない。時の流れのままに、指導者が右と言えば右に、左と言えば左に向いてしまう。調子がよい。裏切りの匂いがする。主イエスはそこに目を留められる。難しい気象さえ読む力がある。流されないでしっかり時代を読み取りなさいと言われたのです。

 「今の時」とは難しい言葉です。カイロスという語で、時、時代と訳される。「今の時」とは「今、何時?」と時刻を尋ねる言葉ではない。マルコ福音書1:15「時は満ちた」と記されます。主イエスは「わたしの時」と言われた。パウロが「見よ、今は恵みの時」と言う。この時が「カイロス」です。ある特別な意味を持つ「時」です。ある定められた特別な時のことです。神の御子が人となって下さった時、そのお方が十字架の贖いをして下さる時、神の救済の出来事の時です。神の訪れの時と言ってよいでしょう。それが「今の時」なのです。あなたたちは天候さえも読むことが出来る。どんな前兆があれば、明日は晴れか、雨が降るか、正確に読み取っている。しかし、どうして神の訪れの時を読み取ることが出来ないのかと言われた。長い間、神の民とされてきたあなたがたが、今の時、神の訪れの時を、どうして読み取れないのだと、歎きつつ尋ねているのです。

 次の例えは和解の勧めです。なぜ、時を見分け、時を読み取らねばならないのか。それは神と和解をしなければならないからです。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」。難しい例えではない。一緒に歩いている者の気持ちを読み取りなさいということです。今、私はある人と一緒に歩いている。その人は自分を訴えることの出来る人で、しかも訴えようとしている。無実なら何でもないが、自分自身でも訴えられる罪とか原因が分かっている。私の人生は、訴える人といつも一緒に歩んでいるようなものだ。そうだとしたら、一緒に道を歩いている今の内に和解してしまえ。訴えが成立して裁判になる前に和解してしまいなさい、それが賢いことだ、正しいことではないかと、主イエスは言われているのです。

 ここで大事なことは「訴える人」とは誰かということです。私はストレートに神であると理解します。神が私たちと一緒に歩いて下さる。人は神と共に生きているのです。神は人間を造り守り支えておられます。それだけでなく、共に歩んで下さいます。超越の神であると共に内在の神です。私たちは罪人です。罪に対して神が怒っておられる。罪に対する神の怒りを、人は真剣に考えなければならない。うやむやに出来ない。しかし、神は罪を犯した人を追いかけて、丁度アダムに語ったのと同じように私たちの耳元で「あなたはどこにいるのか」と語りかけておられます。

 そして、一緒に歩んでくださいます。神はあたまから私たちを訴えるのではない。罪人と和解したいのです。この和解のための時間を与えていてくださいます。神に背いた人間が神と和解するために時間を与えていてくださいます。それが「今の時」なのです。神の側で和解の用意をして下さいました。それがキリストの到来です。神はキリストによって和解の手を差し伸べておられるのです。それが「今の時」、神の訪れの時なのです。

 しかし、和解のための時間が虚しく過ぎ、和解の手が振り払われるような時に、今度はその神が罪人を訴え裁かれます。神をないがしろにし、背き続け、呼びかけを無視し続けると、たいへんなことになる。神は終わりの時に私たちの訴え手となり、裁き手となる。罪の負債を「最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」、つまり永遠の刑罰に処せられると言われています。主イエスは「偽善者よ」と、厳しい言葉をもって語られます。しかし、決して人々を断罪しているのではありません。ここで主イエスは、神との和解を勧める伝道説教をしておられるのです。ここに記されていることは、今日の私たちにも語られているのです。