2014年9月14日礼拝説教 「忠実で賢い管理人は誰か」

            2014年9月14日

聖書=ルカ福音書12章41-48節

忠実で賢い管理人は誰か

 

 ペトロの質問「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」から始まる。35節以下で、主イエスは婚宴から帰ってくる家の主人の話をされた。この例えは細かく言えば2つの焦点を持っています。1つは婚宴から必ず帰ってくる来る主人を待つことです。これが例えの基本です。しかし、もう1つ焦点がある。婚宴から帰った主人は、忠実に待っていたしもべたちを食卓に着かせて、主人自身が帯を締めて給仕をしてくださると語られた。

 ペトロが心を惹かれたのはこのところではないだろうか。婚宴から帰宅したご主人、再臨の主イエスに食卓のサービスをしていただくしもべとは、誰のことか。この例えを聞いて、ペトロの思いの中にあったのは、それは私だという思いです。主イエスに従い、主のために働き続けている私こそが、そのサービスを受けるに相応しい者ではないかという意識です。ある聖書学者は「この発言はペトロの優越意識に立っている」と言う。弟子全員が主イエスのサービスを受けるのは不満だった。弟子の間に、主イエスが御国で栄光の座に着かれた時、その右と左に座るのは誰かとの議論が繰り返された。同じ思いが、この時のペトロの胸中にあったかもしれない。

 しかし、ここで大事なことは、主イエスはこのペトロの問いに対して直接、何も答えていないことです。サービスを受けるのは、あなただとか、一部の者だとも、みんなの者だとも、まったく語られない。ペトロの問いに対して、主イエスはこう答えておられます。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」。これは、どういう意味のお言葉なのか。

 主の再臨・終わりの時を目ざして教会は身繕いして歩む。信徒の群れをどのように整えていくか、群れをどのように指導するか。ここで新しいことを、主は語っておられます。群れは、だれかが指導しなければならない。多くのしもべたちに「時間通りに食べ物を分配する」管理人が必要なのです。この言葉は、ペトロを招いておられる言葉なのだと言ってよい。そうだ、誰か彼かではない。先ず、あなたが管理人にならなければならないのだ。管理人として「あなたが立たなければならないのだ」と言われているのです。教会にはいつの時代でも仕え人・管理人が必要なのです。

 では、どういう人が管理人として立てられるのか。1つは、主イエスは群れの管理人を立てると言われていることです。同じ「召使いたち」の中から立てられて管理人となる人がいる。教会は1つの共同体としての秩序を持つのです。教会員はすべて神の子ら、神のしもべ、「召使い」と言われています。すべてキリストのしもべで、がかけがえのない大切な存在です。この大切な群れを指導し、管理し、終末に備えして歩むために、主イエスは召使いたちの上に管理人の務めを担う者たちを置かれるのです。

 第2に、管理人の務めは「時間どおりに食べ物を分配すること」です。管理人と訳された言葉は「オイコノモス」、「スチューワード」です。家の管理をするしもべです。教会役員は仕えることによって治めるのです。キリスト御自身がしもべとして仕えることによって教会のかしらとなられた。群れの世話をすること、御言葉と霊的なケアー、群れを養い育てることです。ある定まった大切な時にきちんと整った食卓を用意することです。礼拝における御言葉の食卓と言っていいでしょう。教会は御言葉の食卓を用意して、共に御言葉を食するところなのです。キリストのしもべたちは神の御言葉によって養われ、成長する。群れに管理人が備えられているのは、この御言葉の食卓を用意して群れを養い育てるためなのです。

 第3に、主イエスが管理人に求めているのは、忠実さと思慮深さです。これが管理人の在り方です。忠実とは「主に対する忠実さ」です。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と言われます。管理人が立てられるのは奉仕するためです。自分が偉い者になったように錯覚して、自分が主人になったかのように思い込んで、自分勝手にその家を取り仕切る、これが不忠実です。

 「賢い」とは「思慮深さ」です。単なる頭の良さ、この世的な賢さではありません。この世の知恵や知識がまったく無益ではありません。しかし、教会を世の会社経営をするように経営する賢さではありません。群れの管理人には霊的な賢さ、霊的な理解力が求められる。「主人の思いを知りながら」「主人の思いとおりにしなかった」という言葉が出てきます。主人の思いを知ることが賢さ、思慮深さの基本なのです。主の御心、主の御意志に従って群れを整えていくのです。管理人には、教会の営みの中で具体的に判断することが求められる。人が病んだ時にどうするか、悲しい出来事が起こった時にどうするか。群れの指導者を欠いた時にどうするか。具体的な課題に出会って、具体的な判断が求められていくのです。

 その時、キリストの御心を弁えて群れを導いていくことが求められているのです。その意味で、思慮深さは祈りと深く関わります。主は何を欲しておられるのかということは、祈りにおいて受け止められます。御言葉に耳を傾け、祈り深くある。その中で主人の思いを悟って群れを導くのです。

 主イエスは、「このような管理人は、いったい誰であろうか」と問われた。ペトロよ、あなたではないのか。いいえ、ペトロだけのことではありません。主のお言葉を聞くしもべたち一人ひとりに向けて語られているのです。今ここで、この主のみ言葉に聞く私たちを、主は召しておられるのです。あなたが、あなたこそ、このような管理人になるのだ、と。