2014年9月7日礼拝説教 「終わりから考える」

              2014年9月7日

聖書=ルカ福音書12章35-40節

終わりから考える

 

 主イエスが弟子たちに主の再臨に備えすることを明確に教えられたところです。キリスト教信仰は、「キリストが再び来られる」という終わりの時を見つめて生きる信仰です。私たちは過去のキリストの出来事を振り返ると共に、終わりの完成を見つめて生きるのです。キリスト者の生き方は基本的には未来志向です。主イエスは今、十字架を目指して歩まれていますが、その先まで視線を延ばしています。十字架から復活と昇天、そして終わりの時の再臨にまで想いを馳せています。主イエスを信じる弟子たちは、ものごとを終わりから、終末から考えて生き方を整えるようにと教えられたのです。主にお会いする備えをする。それが信仰生活なのです。

 主イエスは先ず、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われました。これがキリストの弟子の在り方です。いつでも「ハイ」と返事して立つことができる緊張をもって待つことです。キリスト者の生き方は、このような生き方なのです。そして、その理由を2つの例えで語られました。1つは、婚宴から帰って来て戸を叩く主人の例えです。もう1つは、泥棒の例えです。中心は婚宴から帰って来て戸を叩く主人の例えです。主イエスが再び来られることが、婚宴に招かれて帰ってくる主人に例えられています。主人は結婚の祝宴に招かれて出かけています。今日、私たちの周囲で行われている多くの結婚式は正確に時間が決まっています。また夜に行うようなこともありません。定刻が近づくと、賑わっていても式場の係から「もうお開きの時間ですので…」と言われてしまいます。

 主イエス時代のユダヤの結婚の祝宴は、多く夕方から始まります。時間の制約などありません。真夜中まで続くこともあった。お金持ちの場合は2日、3日とぶっ続けで祝宴が続くこともあった。ぶどう酒がある限り続くのです。婚宴に招かれたご主人の帰宅時間は予想できません。留守を守る者たちにとって、ご主人がいつお帰りになるか分からない。突然の帰宅を補強するのが「泥棒」の例えです。いつ来るかまるっきり分からない。

 けれど、家のご主人ですから必ず帰って来ます。帰るのが真夜中になるか、2,3日後になるかは分かりませんが、必ず帰って来ます。主イエスの再臨は必ずある。時期は分かりませんが、必ずある。再臨などと言うと、狂信的なグループか特殊な信仰のグループの主張と思うかもしれません。しかし、改革派教会の信仰の大切な告白です。ウェストミンスター信仰告白33章で「キリストは、いつ主が来られるか分からないので、すべての肉的な油断を振り捨てて、常に目を覚ましているように、またいつでも『来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ』という用意が出来ているように、その日を人々に知らせずにおかれる」と記しています。

 キリスト教信仰は、終末を待望して生きる信仰です。ある神学者は、「再臨の期待を持たないイエスに対する信仰は、不渡り手形や不真面目な約束に等しい。再臨の期待のないキリスト教信仰は、行き先不明の階段と言うよりも登っていったら先が途切れている階段のようなものだ」と言います。主が再び来られるという信仰こそ、キリスト者の今を生きる力なのです。

 終末とか再臨と言うと、恐ろしい時と考える人がいます。ご主人の帰宅は決して恐ろしい時ではなく、喜びの時なのです。主イエスは、この主人が「婚宴から帰ってくる」と言われました。喜びの祝いの席から帰ってくるのです。私の父は建築士をしていました。子どもの頃、父親がお祝い事から帰ってくると、必ずお祝いのお裾分けがありました。わくわくして待った。貧しい時代、父親の持ち帰った折り箱を開けるのが楽しみで、兄弟で争いあって食べたものです。信仰者にとって、主イエスの再臨は恐ろしい時ではなく、永遠の命の祝福と復活の恵みにあずかるというキリストの勝利のお裾分けにあずかる時なのです。ハイデルベルク信仰問答では、キリストの再臨は「わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです」(問52の答)と記しています。キリストの喜びの中に迎えられる時なのです。

 喜びの祝宴からお帰りになる主人を出迎えるしもべの務めの第1は「目を覚ましている」ことです。「目を覚ます」ということは、どういうことでしょうか。いつ主の再臨があってもよいように、喜んで主にお会いすることの出来る信仰の姿勢を持ち続けることと言ってよい。毎日、聖書を読み、祈りを捧げること。主の日ごとにきちんと礼拝に出席して、主にお会いする備えとしての礼拝を捧げることです。礼拝の中で、主にお会いする備えをしていくのです。礼拝は、私たちをしっかりと信仰的に目覚めさせて、終わりの日に備えさせる働きをしてくれるのです。

 宗教改革者のルターに、「リンゴの木を植える」という言葉があります。暖炉の傍らで弟子たちがルターを取り囲んで口々に尋ねます。ある人が「ルター先生、もし、再臨が明後日、あさってあるとしたら、先生は明日一日何をなさいますか」と尋ねた。ルターはこう答えました。「明日の午前中は学校で授業をする」。ルターは神学校の先生でしたから当然の務めです。「午後少し休んだら、リンゴの木を植える」と言った。リンゴの木を植えることはルターの趣味の生活の一部です。そして続けて言います。「夜寝て、目が覚めて、主のみ顔を仰ぐことが出来るのなら、こんな幸いなことはない」と。「腰に帯を締め、ともし火をともしてい」るとは、こういうことなのです。信仰者として落ち着いた普段の生活をすることです。一人一人に割り当てられている仕事を落ち着いて忠実に果たし、趣味をも楽しむのです。落ちついた生活をすること、これが「用意している」ことなのです。