2014年8月3日礼拝説教 「神の前に豊かになれ」

          2014年8月3日

聖書=ルカ福音書12章13-21節

神の前に豊かになれ

 

 群衆の一人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、主イエスに訴えがなされた。すると、主イエスはその心根を見抜いて、この例えをお語りになられました。

 「愚かな金持ち」と言われているが、この金持ちは決して愚かではありません。むしろ賢く、仕事熱心で、世間では成功者と見られていた人でした。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう』」と。この金持ちは非合法の手段を用いたわけではありません。「豊作」は、何の努力もなしに出来ることではありません。種をまいただけで豊作が約束されることはありません。雑草を取り、水を管理し、肥料もやった。人一倍努力して、今、豊作になった。この男はこの何年かに一度の豊作の時を無駄にしなかった。将来を見通すことの出来る判断力があり、決断の人でもあった。今までの倉庫が小さくなって作物をしまう場所がないと分かると、小さな倉を壊してもっと大きな倉を建てるだけの決断を瞬時のうちにした。この金持ちは決して世間的な意味では愚かではなく、すばらしい人でした。

 ところが、主イエスは「神は『愚かな者よ』と言われるのだ」と言われた。世間的には賢い人であっても、神から見たら「愚かだ」と言われることがある。この賢い金持ちのどこが「愚かだ」と言われなければならないことだったのでしょうか。

 第1の点は、徹底的な自己中心です。新共同訳の翻訳の問題ですが、「わたし」という言葉が訳出されていません。日本語としては「わたし」という語は出さない方が良いと言われています。しかし、この個所は「わたし」を省いてはならない。ここに強調点がある。17節「わたしの作物」、18節「わたしの倉」、「わたしの穀物」、「わたしの財産」と、全部「わたしの」が付いている。この男にとって関心はすべて自分でした。全部私のもの、俺のものという考え方です。収穫が神の恵みで、富が神からの預かりもので、神と隣人のために用いるなどという考えはまったくない。自分を満足させるため、自分の快楽を満たすために用いようとしている。どん欲、むさぼりとは、自分を満足させる自己中心です。この考え方が愚かなのです。

 第2の点は、財産で命の保証が出来ると考えたことです。この男は収穫を倉に収めて「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と言います。主イエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」と言われました。人は、お金、財産があれば何でも解決でき、幸福をつかむことができると考えます。お金さえあればと、お金、お金と追い求めます。しかし、お金で買えないものがある。お金で解決できないものがある。お金や財産さえあればという考え方が戦後日本を支えてきた。今、私たちは本当に心満たされた思いで生活しているでしょうか。むしろ、生活のあらゆるところにひずみが出てきているのではないでしょうか。

 主イエスは、最後に人の命そのものの問題を取り上げています。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。この金持ちの愚かさは、死ぬ時には何も持っていけないことをきれいに忘れていた。いや、それだけでなく、自分の命がいつまでも続くと考えていた。彼は努力と知恵と決断によって長年分の蓄えも出来ました。「自分のために富を積んだ」のです。しかし、その富、その蓄えで彼の命は保証できません。神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と宣告されたのです。どんな財産も富も人の命の保証とはならない。私たちは信仰者として、このことを見つめて行かねばならないのです。

 では、どうしたらよいのでしょうか。主イエスは「神の前に豊かになれ」と言われました。人はこの世的に富む道は知っているのですが、案外、神の前に富む道についてはよく分からないのではないでしょうか。神の前に富む、神の前に豊かになるとは、神の視座から自分の人生を見て、生き方を定めることです。永遠の世界から自分の生き方を見直すことです。それは神と隣人に仕えて生きる生き方です。「ただ、神の国を求めなさい」。マザー・テレサの魅力はここにあると思っています。マザー・テレサは1人の老婆に過ぎませんでした。しかし、彼女の周りにはいつも多くの人が集まってきました。彼女の中に自分のためではなく、神のために、隣人のためにひたすら生きる生き方があったからです。多くの人はそこに魅力を感じたのです。彼女は何ひとつ持たなかったけれど、神の前に豊かに生きた人です。人生をこの世界の視野だけでなく、永遠という視野からとらえて生きるところに、この世の人にない本物の魅力が生じるのです。

 そして、神の前に富むとは自分の終末の備えをして生きることです。この金持ちは、地上で生きるために必要な富のためには賢く生きた。しかし、永遠の世界で生きるための備えはしなかった。これが究極の愚かさです。終末に対する備えは、神の前に立つ備えです。根本的な貧しさ、罪を認めて、神のプレゼントをありがたくいただくことです。神のプレゼントであるイエス・キリストを信じ受け入れることです。それによって、私たちは神に対して豊かになるのです。十字架のキリストを信じる者は、罪を赦されて永遠の命をいただき、神の子としていただけるのです。この恵みに感謝して、私たち自身を主に捧げて生きるのです。恵みに感謝するところで自分自身を捧げられる。神の前に豊かになるとは、キリストを信じ、恵みに感謝して生きることです。それが終末に備えして生きる賢明さなのです。