2014年7月27日礼拝説教 「信仰を言い表す」

              2014年7月27日

聖書=ルカ福音書12章8-12節

信仰を言い表す

 

 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」。この個所は「人々の前で、わたし・キリストを言い表す」ことが主題となっている。信仰告白です。その信仰告白は、いつなされるのか。どんな時なのか。思い起こすのは洗礼式の時、信仰告白式の時だと思います。牧師から「あなたは天地の造り主、唯一の生けるまことの神のみを信じますか」「あなたはイエス・キリストを神の御子、また罪人の救い主と信じ、受け入れますか」と尋ねられ、ハイと神と教会の前で誓約します。

 洗礼や信仰告白の時は、暖かな雰囲気の中で喜びをもって行われます。誓約の言葉を忘れても牧師が助けてくれ、間違えても暖かく包んでくれます。教会員の愛に包まれ、私たちは信仰の告白、信仰の言い表しをします。福音書の中でも、よく似た状況が描かれています。フィリポ・カイザリアで、主イエスご自身によって弟子たちの信仰が問われました。主は暖かく十分な配慮をもってお尋ねになります。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」と答えやすいように尋ねられた。答えると次に核心を突く質問をされた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。ペトロが代表して「神からのメシア(キリスト)」と答えます。正解です。万一間違って答えても、イエス様はお前は失格だとは言わなかったでしょう。主イエスの愛に包まれた中での信仰の告白でした。

 しかし、信仰の告白は、いつでも暖かな愛に包まれてなされるわけではない。何の準備もなしに、憎悪に満ちた状況の中で信仰を言い表すことが求められる場合もある。イエスが逮捕され大祭司の家に連れて行かれた。ペトロは大祭司の家の中庭まで潜入する。すると女中が「この人もあの人と一緒にいた」と言った。ペトロはとっさに打ち消して「わたしはあの人を知らない」と言った。信仰告白に失敗してしまった。その後は坂道を転がるように「知らない、分からない」と繰り返した。ペトロはキリストを裏切ろうと思っていたのではない。不意に言われた時に、とっさに採った行動が「わたしは知らない」というものでした。これはペトロだけの問題ではありません。私たちも同じ弱さを抱えているのです。私たちもとっさの時に、どんな答えを出してしまうか分からない同じ弱さを抱えている。

 対照的に人生の土壇場で、主によって「あなたは、わたしの仲間だ」と認められた人もいます。主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人です。彼は仲間をたしなめて「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。主イエスは彼のこの言葉を罪の告白と信仰の言い表しと受け止めて、「よし、その言葉をお前の信仰の告白と認める」、「あなたはわたしの仲間だ」と、認めてくださったのです。

 どうして、こうなったのか。一方は失敗し、他方は土壇場でキリストの仲間と認められた。さらに不思議なことはキリストの面前でキリストを認める告白に失敗したペトロがもう一度、回復されているのです。主イエスは、このような信仰の言い表しにかかわることは聖霊のお働きによるのだと言われています。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。皆さんは、このみ言葉をどのように理解されるでしょうか。イエスの悪口を言うキリスト信仰の否定と、聖霊冒涜と言うこととどう関わりがあるのかなど、いろいろな理屈や議論を言う人たちもいます。ここで覚えていただきたいことは、救いは聖霊なる神の圧倒的な働きによるということです。聖霊の働きがなければ、誰もイエスを主と告白することは出来ない。救いの道筋は、聖霊が私たちの中に住んでくださるところに始まります。今まで霊的な意味では死んでいた私たちの心が聖霊によって造り変えられ、新しくされます。神は人の心を新しく造り変えて、福音を聞く心へと変えてくださるのです。

 「人の子の悪口を言う者は皆赦される」。ペトロの失敗を覆ってくださる御言葉です。ペトロと同じように、とっさの時に、油断している時に、私たちも「キリストを知らない」などと口走ってしまうことも起こりえます。迫害や人々の憎悪に取り巻かれて、心弱くなり、信仰を持っていながらも言い表すことが出来なくなってしまう時もある。しかし、ペトロと同じように悔い改めて立ち戻る時に、主は「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言ってくださいます。本当にありがたいことです。ウェストミンスター信仰告白15章4節に「裁きに値しないほど小さな罪が存在しないのと同様に、真実に悔い改める者に裁きをもたらしうるほど大きな罪も存在しない」と記されています。信仰を言い表すことに失敗した時、それに気付いた時、その罪を認めて、その時こそ聖霊が働いておられる時と受け止めて、悔い改めて罪の赦しをいただき、信仰者として歩み直すのです。

 「しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。聖霊を冒涜するとは、聖霊の働きを受けながら、聖霊の働き、聖霊の声を押し殺し、圧殺し続けることです。聖霊の働きを無視し続けることです。自分の生き方を固執し続けることです。その結果、聖霊がもはや語りかけることを止めてしまうのです。悔い改めの心、信じる心が取り去られてしまうのです。聖霊の働きを無視しつづけていくと、悔い改めの機会を失ってしまう。それが「聖霊を冒涜する者は赦されない」ということです。福音を聞く機会に導かれた時には、人生の大事な時として受け止めなければならないのです。