2014年7月20日礼拝説教 「神はお忘れにならない」

            2014年7月20日

聖書=ルカ福音書12章4-7節

神はお忘れにならない

 

 主イエスは弟子たちを「友人」と呼んでおられます。日本で「友人」は少しよそよそしい感じがする。家族関係が一番深く、次に会社の同僚という関係ではないか。友人は「距離のある関係」を表す言葉ではないか。しかし、主イエスにとり「友人」とは深い意味を持つ言葉です。「愛し、愛されている」ことが前提になっている言葉です。ヨハネ福音書11章に、マルタとマリアの弟ラザロの死が伝えられた時、主イエスは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われた。主が心から愛し、面倒を見てきた家族のラザロを「友」と呼ぶのです。

 主イエスが「友」という言葉の意味をしっかり教えられたのは、ヨハネ福音書15章においてです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」。「友のために自分の命を捨てる」と言われ、それを文字通りに実行されました。主イエスご自身が友のために命を捨ててくださった。これが主イエスのお語りになっている「友人」という言葉の意味内容です。

  主イエスは今、弟子たちを「友人」と呼んでおられます。単なる知り合いではない。十字架の血によって贖ってくださる「神の愛の対象者」、神の選びの民を「友」と呼んでおられる。12人弟子や72人の弟子だけのことではない。キリストを信じて生きる私たち全てがキリストの友なのです。「わたしの友ラザロ」と言われたのと同じく今、この礼拝の場にいる私たちの名を呼んで「わたしの友」と呼んでくださいます。キリストの友人とは神に愛され、キリストの血によって贖われている者たちのことです。

 主イエスは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。…この方を恐れなさい」と言う。一言で言えば「人を恐れるのではなく、神を畏れなさい」です。このことをお語りになったのは、近い将来の迫害を予想されたからです。今は群衆が足を踏み合うほどに集まっている。やがて潮の引くように姿を消す。代わって「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と叫ぶ群衆が登場する。主はファリサイ派の敵意と初代教会の受難とを見通しておられます。主に忠実に従っていくところに迫害と受難とは付きものなのです。

 迫害と受難の中で、キリスト者はどのように生きるのかと教えておられるのです。キリストによって贖われた者は「人を恐れるのではなく、神を畏れなさい」と言われた。人間のなし得ることは体を殺すところまでしか及ばない。しかし、神は魂に力を及ぼすことの出来るお方です。神は永遠を支配する力を持つお方です。人の顔を恐れる、顔色をうかがう。そこに偽善が生じ背信が生じる。ペトロもこの点で失敗した。主イエスが捕らえられ、大祭司の家の中庭で議会の法廷に立たされた時、ペトロは大胆にも大祭司の中庭にまで潜入した。そこに女中が来て「この人もイエスと一緒にいた」と言う。あわててそれを打ち消し「わたしはそんな人は知らない」と三度も否定してしまった。フィリポ・カイサリアの時にまさって、この時にこそキリストへの信仰の告白が求められていた。しかし、失敗してしまった。主の目の前で背教してしまった。キリストの友である者は信仰を明らかにしていく使命を与えられている。キリスト者はいつでも誰の前でも「私はキリストの仲間である」と証しすることが求められている。世の人々の前で告白することが求められているのです。

 ペトロが体験したような緊迫した場面で証しすることが求められる場合がある。その時に、主イエスはこのことを覚えていなさいと言われた。神の摂理的な配慮と守りです。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている…」。「お忘れにならない」という言葉で神の確かな守りがあることを示している。

 2つの例えを語られた。1つは雀です。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」と言われた。子どもが罠を作って雀を捕らえ、それを路地の片隅で売る。1アサリオンは日本の価格で言えば百円くらい。2羽で1アサリオン、4羽で2アサリオン。1羽はオマケです。主はオマケとして売られている「一羽さえ、神がお忘れになることはない」と言われた。値も付かないオマケとして売られている貧弱な雀でも神は目を留めておられると言われた。2つは髪の毛です。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と、主は言われた。洗髪したら多くの毛が抜け落ちてしまう。誰も気にも留めない。何の価値もないようなもの。しかし、神は誰も気にしない髪の毛までも一本残らず数えておられると言われた。

 神にとってつまらないもの、役立たないもの、貧弱なものはないのです。すべてを造られた神にとって、すべてのものが意味があり、存在の価値がある。神はすべてのものに深い関心を持ち御心に留めておられます。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。「まさっている」とは、「はるかに尊いものだ」という意味です。私たちはキリストが「友人」と呼んでくださる関係の中にあるのです。キリストが血を流して贖い取られたかけがえのない存在です。私たちは決してつまらない存在などではない。神は私たちを愛して、しっかりと見つめておられます。恵みの御手をもってしっかり支えていてくださいます。この神の守り、神が見詰めておられる視線を実感して、私たちは生きるのです。