2014年6月29日礼拝説教 「背負いきれない重荷」

            2014年6月29日

聖書=ルカ福音書11章45-54節

背負いきれない重荷

 

 主イエスはファリサイ派に対して厳しい攻撃をしました。すると、そこにいた律法の専門家がかみつきました。「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と。律法の専門家とファリサイ派とは一体の関係と言っていい。旧約律法の規定に従って生きようと願ったのがファリサイ派です。その中で律法を専門に学び、教えていたのが律法の専門家です。ファリサイ派に対する攻撃は律法の専門家に対する攻撃でもあった。主イエスは律法の専門家に対して、「あなたたち律法の専門家も不幸だ」と語ります。「不幸」とは、「わざわい」と訳すべき言葉です。ある翻訳者は「呪われた存在」と訳している。単なる不幸ではなく、大きな災害をもたらす存在です。ここでは律法の専門家の3つの災いを指摘しています。ここから、今日の私たちの信仰の姿勢を正してまいりたい。

 律法の専門家の第1の災いです。「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」。律法主義とは、神の戒めを完璧に守ることで救いを得ようとする考え方です。ですから、熱心に厳しく律法を守ろうと努力します。ところが人間の弱さについて無頓着でした。人間の弱さについての理解を持つことが出来ず、弱さを持つ人に同情することも出来ませんでした。努力できない人間、努力しても直ぐに破れてしまう人間に対しては軽蔑するだけです。

 彼らは人に律法厳守という重荷は負わせるが、それに破れてしまう人間の弱さについての配慮がない。ですから、福音が分かりません。福音とは、罪を犯し惨めさの中で弱さを身に負う罪人の救いなのです。このようなことは、キリスト教信仰の中にも起こりうる。人間の弱さを顧みず完璧であることを信仰者に求めようとする傾向がある。ある教会の婦人執事は熱心な奉仕者でしたが、他の人にも同じように熱心であることを求めた。「ガンバってね、ガンバってね」と。それをうつの状況にあった人が聞いた時に、問題が起こった。熱心な信仰、熱心な奉仕を求め、熱心と努力に欠ける者を信仰者として認めようとしない傾向があった。

 宗教改革者カルヴァンは、冷たい人のように思われているが、決してそんな人ではなかった。カルヴァンは、本物の信仰者にもなお罪と弱さが残り、疑いが起こり、信仰が冷えるような時もあるのだとはっきり認めています。信仰者は自分の罪と弱さに対して戦わねばなりませんが、そのような罪と弱さがあっても本物の信仰者なのだと教えた。キリスト教信仰は、人間の弱さを受け入れ、弱さに配慮し寄り添う信仰なのです。

 律法の専門家の第2の災いです。主イエスは「あなたたちは…自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している」と言われた。律法の専門家は旧約聖書に精通し、旧約預言者の後継者のように見える。彼らもそのように自覚していた。しかし、主イエスは、あなたがたは先祖の業を完成する共犯者、殺人者の側にいるのだ、と痛烈に皮肉られた。実際、この後、彼らは預言者の中の預言者キリストを殺すことになります。さらに使徒たちをも殺すことになる。律法の専門家は聖書に精通していると自他共に認めながら、神が遣わした本物の預言者を抹殺しているのです。

 律法に精通していながら、どうして神が遣わされた者たちを抹殺するようなことになったのか。神の新しい語りかけに耳を傾けようとしなかったからです。自分勝手に「神とはこのような方だ」「神の御心、神の掟はこうだ」と決めつけた。神の言葉に人間的な枠をはめてしまったと言っていい。そして、それ以外の新しい神の語りかけに心を開こうとしなかった。彼らも自分たちの律法理解にも誤りがあるかもしれない、誤りうる可能性があると認めたならば、主イエスを十字架に架ける前に正気に戻れたかもしれません。しかし、独善的、閉鎖的な律法理解にしがみついてしまっていた。

 キリスト教でも事情は同じです。誤りがないのは神の御言葉だけで、それを理解する人間の側は誤りを犯しうる。十分に理解し得ないこともある。御言葉から新しく教えられることに謙虚でなければならない。改革派教会とは、「御言葉によって絶えず改革され続けていく教会」です。改革派教会は、聖書の理解において、教会のあり方において、閉鎖的であるような在り方は改めていかねばなりません。いつでも新しく御言葉に聞き直していく、新しいことに取り組んでいく勇気を持ち続けたいものです。

 律法の専門家の第3の災いです。主イエスは「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」と言われた。「知識の鍵」とは、神の御国に入るための信仰的な知識のことです。救いを得るためにはある信仰的な知識が求められます。律法の専門家の務めは、聖書にある救いの知識を多くの人に教えて、人々を救いに導くことです。ところが、彼らは救いに入るための鍵である知識を一般民衆から取り上げてしまって、「自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」のです。民衆から聖書を遠ざけ、誤りを公然と教えた。大きな災いです。

 今日、大事なことは礼拝で解き明かされる聖書の知識を信仰をもって受け止めてくださることです。牧師は聖書において福音を読み取るのです。その福音を語るのが説教です。その福音を信じるところに救いがあります。神が罪人を愛してくださり、神の御子を渡してくださった。この十字架と復活のキリストを信じて赦しといのちがあるのです。これが福音です。この福音を伝えることは、聞く人々に神の国に入るための知識の鍵を差し上げていることなのです。礼拝の説教に耳を傾けていただきたいのです。