2014年6月1日礼拝説教 「内側を清めなさい」

             2 014年6月1日

聖書=ルカ福音書11章37-41節

内側を清めなさい

 

 この個所は、ユダヤの宗教指導者ファリサイ派への主イエスの痛烈な批判の言葉の集積です。主イエスが力を込めて正面から批判したのは、この人たちでした。このファリサイ派批判が、やがて主イエスを十字架処刑に追いやっていく直接的原因になった。では、批判されたファリサイ派とはどういう人たちであったのか。立派な人たちでした。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。そのためローマ文化が流入し民衆の心と考え方がローマナイズされていった。それに対して、ユダヤ伝統の信仰に戻ろうと努力したのがファリサイ派でした。ローマ化していく、世俗化していく時代の歩みから分離して、律法の民として生きようと努めた。ですから、ファリサイ派は当時の民衆の尊敬を勝ち得たのです。

 主イエスがあるファリサイ派の人から食事の招待を受けたところから始まります。ファリサイ派の人は、イエスがどのように振る舞うかを監視していた。その食事の席には、イエス一行だけでなく何人かのファリサイ派の人たち、律法の専門家と言われる人たちも同席していた。食事を口実にしたイエスの言動へのテストでした。一般にはイエスもファリサイ派と同類と思われていた。しかし、どうも違うようだ。自分たちの仲間なのか、それとも違うのか、よく見てやろうという意図が隠されています。

 主イエスはファリサイ派の人の招きを拒否することなく受け、いつものとおりに食卓につかれた。人々の視線が主イエスに集まっています。主人は「イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」。「身を清める」とは、手を洗うことです。今日、食前に手を洗うことは衛生のためです。しかし、この時代の「手を洗う」は儀式的なものでした。ファリサイ派は世俗の汚れを嫌います。そのため大事なことをする前に事ごとに「清め」の儀式を行った。清めとして指の先をちょっと水につける、ちょっと水を垂らす。主イエスはそんなことにかまわず、つまり清めの儀式をせずに食卓に着いた。主人は「不審に思った」。これは緩い訳し方です。「不審に思った」なんてものではない。「驚いた」「ひどく驚いた」と訳すべきです。自分たちが大切にしてきた宗教伝統が無視されたことに対する驚きです。あっけにとられた。「何だ」という思いで一杯だった。さらに周囲の人々の冷たい視線が一斉に主イエスに向けられた。

 人々の冷たい視線の中で、主イエスはお応えになられた。清めの儀式は迷信だという合理主義からの批判ではない。ファリサイ派的なものの考え方、生き方を真っ向から批判する鋭い言葉です。主イエスは、第1に彼らがしていることは食器の外側をきれいにしても内側は汚れたままにしておくような愚かなことをしているのだと言われた。清めの儀式によって外側を清めようとしている。しかし、内側については何にもしていない。心の中は強欲や悪意で満ちている。それを放っておいて、外側だけ清めても意味はない。内実を清めるならば全体が清くなると言われたのです。信仰は

心で信じる。この信仰の基本が忘れられるところで、を整えるファリサイ主義が出てくる。偽善、見栄、形式主義、自己顕示が生まれてくる。宗教に潜むファリサイ主義は、主イエスの最も嫌うものです。

 ユダヤ教ファリサイ派だけのことではありません。キリスト者の中にも同じ課題がある。ある若い女性の相談を聞きました。クリスチャンホームに育った。お父様はすぐれた教育者でした。彼女が訴えることはクリスチ

ャンホーム、そして教育者の家庭に潜む見栄の問題でした。いつもを大切にしている。外面を重んじた生き方がどれほど娘を悩ましてきたかに尽きる。自分も似たような生き方をしていることを心をえぐられるような思いで聞かされました。子どもは家庭を裏側から見ている。宗教に名を借りた手前勝手、エゴイズムになかなか気付かない。20数年前のことになりますが、私も尊敬していたあるキリスト者の学者がお孫さんにバットで殴り殺される事件が起こりました。衝撃的な事件でした。今日の家庭の悲劇の多くは、弱さや間違いよりも、むしろ立派さや道徳性の中にあるので

はないかと思う。立派さや道徳性がになってしまっている。

 では、どうしたらいいのか。主イエスは「ただ、器の中にある物を人に施せ」と言われます。このお言葉は分かりにくい。時に誤解されることもある。どういう意味か。人にものを施すような立派な行いをすることか。慈善をしなさいというのか。心や内面を磨くことに努力することか。それはますますファリサイ主義の度を増していくことです。この御言葉は、「生き方を変えろ」と言うことです。主イエスは、「あなたたちの内側は強欲と悪意で一杯だ」と言われました。その内側にある強欲と悪意を放り出すこと、見栄や偽善、形式主義を放り出すことです。努力して出来るのであれば、ファリサイ派の人はやったでしょう。ファリサイ派は努力主義なのです。そのような努力主義の生き方を根本から変えることです。主のお言葉で語られていることは悔い改めです。方向転換です。

 信仰の基本に立ち帰ることです。私たちは赦されて生きるのです。罪深い私たちです。決して立派な人間などではない。主イエスの御許に引きずられてきた姦淫の女のようなみっともない存在、食べることにも窮して乞食同然の格好で父親の元に帰ってきた放蕩息子のような惨めな存在です。このみっともない惨めな存在であることを隠そうとする。そこから取り繕う見栄や偽善が出てくるのです。私たちの腹の中には強欲と悪意以外にないことをはっきりと認めて悲しむことです。それが真の悔い改めなのです。そして、キリストを仰いで、罪赦された者として生きるのです。