2014年5月25日礼拝説教 「ひとすじのまなざし」

              2014年5月25日

聖書=ルカ福音書11章33-36節

ひとすじのまなざし

 

 この個所は11章29節からの主イエスの説教の結論部分です。主イエスは、「よこしまだ」とイスラエルの人々の盲目さを責めている。群がり集まってきた人たちは神を信じている人です。そう自認している。その人たちに、主イエスは光であるキリストが来ているにもかかわらず、しるしを求めには来ても、光の下に来ようとしないと言われた。これは今日のキリスト者に対しても語られている言葉なのだと言っていい。福音書記者ルカは読者であるキリスト者を念頭に置いている。神を信じていると言っても、本当にキリストに信頼して生きているかと問うているのです。

 ある人は、この個所を「分かりづらい」と言う。確かに分かりにくいところがある。それは、主イエスが1つのたとえで2つのことを教えているからです。1つのたとえが語られます。「ともし火」です。主イエスの時代の灯り、「ともし火」は燭台でした。ともし火皿は大きなものから小さなものまである。大きなものは「燭台」という台の上に置いて家の中全体を明るくします。ともし火である光の働きは周囲を照らして明るくし、足元を照らすためのものです。主イエスは「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われた。カバーを掛けて光を隠すような人はいない。私はこの個所を読むと、戦時中の灯火管制を思い出す。電球に黒いカバーを掛け、光が外に漏れないようにした。光が漏れると上空にいる米軍の戦闘機に気付かれて機銃掃射を受ける。戦争が終わって、もうカバーを掛けなくて済むことを本当に嬉しく思いました。光は、人の歩みや生活を照らし出すものです。私たちは光の中で生活できるのです。

  主イエスは「置くな」という命令ではなく、「置く者はいない」と言われた。光を隠す人はいないはずだと言われた。ともし火についての常識です。このともし火をかかげている人は、一体だれなのでしょうか。燭台の上にともし火を置く主体は、神なのです。ともし火にカバーを掛けることなく、煌々とともしておられるお方は神なのです。神は、主イエスを通して、この上もなく明るく、明快に人を神のもとに招いているのだと、主イエスは言われた。主イエスは決して光に覆いを掛けるようなことはなさらない。どんな人にでも、神の救いを理解させ、神のもとに来ることが出来るようにしていてくださるのです。

 ところが、光を受けながら、ともし火を穴蔵や升の下に置くようなことが起こってしまっている。それがイスラエルの人々の現実ではないのか、と厳しく問うているのです。神はこの上もない明るさをもって、人をご自分のもとに呼び寄せようとしています。キリストが燭台を持って道案内しておられる。「入ってくる人に」と言われます。どこに入ってくるのか場所は語られていませんが、キリストの所に、神のところに、です。キリストの所に求めて入ってくる人たちがいる。その人たちがつまずいたり転んだりしないように、ともし火が明々とともされている。このともし火に導かれてわたしのところに来なさいと、主イエスは招いておられるのです。主イエスは、周りに集まる人たちに招きの言葉をお語りになっているのです。さあ、入って来るがよい。このキリストというともし火に導かれて神の国に入って来るがよいと言われているのです。

 次に、主イエスは、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と言われました。「ともし火」の意味が違ってきます。転釈です。33節では、家全体を照らす燭台の光が語られています。この34節では、目が体の灯り、ともし火だと言われます。体でものを見る働きをするのは目です。目が濁っていると、光が差し込まない。ものが見えなくなる。「体は暗い」とは、生活が闇を歩くようなことになるのです。私たちが暗闇の世界を歩いているのは、光を見るべき目が濁っているのだということです。

 そこで、主イエスは「目が澄んでいれば」と言われます。この「澄んでいる」と訳された言葉は、単純、純真、純粋、健やかという意味を持つ言葉です。澄んだ目とは、外見的なことではありません。目がシングルであること、まなざしが1つの方向を見ていることです。真剣に一筋に見るべきものを見つめるということです。ひとすじのまなざしが向けられる先は、主イエス以外ありません。私たちは一筋にキリストを見つめて生きるのです。これが「澄んでいる目」です。目があっちこっちに向いて焦点が定まらない時、2つ3つのものを同時に見ようと欲張る時、私たちの目は定まりません。きょろきょろしてしまう。その時、その人の目は澄んでいない。「濁っている」。その結果、体は暗くなり、思い煩い、心の病に陥ってしまう。主イエスは、焦点の定まらない生き方をする人たちに対して「今の時代の者たちは、よこしまだ」と言われたのです。

 福音書記者ルカが、この主イエスのお言葉を残しているのは、このことが今日の私たちの課題であるからです。私たちもこの世の歩みにもうまく乗っていきたいと、どこかで考えてしまう。きょろきょろして目が濁ってしまう。信仰の道とうまく世間を渡っていく道とを両にらみしがちではないか。神の祝福とこの世の富とを両にらみして、時にこの世の富に心ひかれて信仰の道を犠牲にしがちではないか。主イエスは「あなたがたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言われます。与えられたキリストの光が消えると、心が闇に覆われて、体も病んでまいります。光であるキリストを一筋に見つめて生きる生き方を回復してまいりたいものです。