2014年5月18日礼拝説教 「キリストに目が開かれて」

             2014年5月18日

聖書=マルコ福音書8章22-26節

キリストに目が開かれて

 

 今日は春の特別伝道集会…「オープン礼拝」です。教会に初めての方、求道中の方々にお話をしたいと願っています。主題は上記ですが、むしろ副題「ゆっくり、急がずに」ということが、申し上げたいことです。

 日本人はせっかちになっているのではないかと思う。すぐ成果を出さなければならない。成果がないと「クビだ」という風潮に慣れてきた。目先の成果を出すことに一喜一憂する。予備校のタレント先生がテレビに登場して、「今でしょ」と叫んでいます。今決断し、今結果を出すことが求められている。あせって成果を求める風潮は私たちの中にもある。プロテスタントが日本に伝えられて150年ほどになる。キリシタン伝来からは450年ほどになる。それなのにカトリック・プロテスタント合わせて人口の1%とは情けないではないかと嘆く声がある。このままだと、どうなってしまうのだと言う人もいます。しかし、仏教伝来は6世紀で今日まで1500年が費やされている。日本伝道について決してあせってはならない。

 信仰を持つことでも、決してあせってはならない。急がずにゆっくり考えてください。「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」。盲人の目が開けられたことは、決して肉体の目が開けられただけのことではない。キリストに目を閉ざしていた人が、主イエスに対して目が開かれることを表すしるしなのです。どうしたら、キリストに目が開かれるようになるのか。

 盲人自身が積極的に自分でイエスのところに来たのではない。人々に連れられてきた。教会に来る方で、自分から進んでくる人もいますが少数です。友だちや家族に連れられてくる。時には嫌々来る。義理で来る。この盲人もそういう人ではなかったか。いつも世話になっている。誘われたら断りにくい。この盲人には、どこか人任せが感じられます。連れてきた人々も初めから「この盲人の目を開けてください」と頼んではいません。何とかしてください、手を置いてくださいと頼んだだけです。けれど、人々は期待しています。主イエスにお願いしたら何とかしていただける。目が見えなくて生活に困っている。何とか解決してもらえないかと。

 主イエスは人々の願いを聞かれます。しかし、その場で大急ぎでという取扱いはなさいません。それがこの個所の特徴の1つです。「盲人の手を取って、村の外に連れ出し」ます。盲人と一対一の関係に立ってくださるのです。信仰は人任せではない。一対一の関係の中で導かれるのです。主イエスは盲人の手をお取りになって、村の外まで一緒に歩いて行かれた。信仰の開眼の道備えになっている。キリストに出会うとは、人が気付かないうちに主イエスが一人ひとりの手を取ってくださり、導いてくださるという先行の恵みがあるのです。後になって分かる。「ああ、主イエスは最初からこのように導いておられたのだ」と。

 もう周りには人はいません。そこで初めて両方の目に「唾をつけ、両手をその人の上に置」きます。それから主イエスは、「何か見えるか」とお尋ねになります。今まで闇の中を歩んできました。暗闇の中で生活していた。見えるなんて思いもしなかった。目を開けようとも考えなかった。しかし、言われて、閉じていた目を静かにゆっくりと開けてみた。ここには、この人の大きな決断があったでしょう。見えるものか。今までと何も変わらないだろう。しかし、ここまで手を引いてきてくれたイエス様の言うことだ。試してみよう。そんな思いで静かにゆっくり閉じていた目を開いてみた。

 すると、盲人は世界が変わっていることに気がついた。明るい世界がある。彼は言います。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」。これは驚きの言葉です。暗闇から光の世界へと言っていいでしょう。「見える。見えた」。けれど、明瞭に見えたのではない。ぼんやりとです。人の姿が見える。動いている。しかしまだ「木のようです」。顔形、姿形、大人なのか子どもなのか、女なのか男なのかさえ、はっきりしません。信仰を求める時に、このような段階があるのです。少し分かってきた。幾らか見えてきた。しかし、まだはっきりしない。ここで失望してはならない。まったく見えなかったものが、ぼんやりと見えてきたのです。

 主イエスはもう一度、この人の目に両手を置かれます。主イエスは、二度でも三度でも手を置いてくださいます。信仰の事柄は、一度聞いて分かる人もいます。しかし、分からない人が多いのです。むしろ、一度や二度で分からないのが普通です。人はこの世で生活しています。この世の論理、この世の考え方になじんでいます。それに対して聖書の語ることは、まるっきり違う世界のことです。頭のいい悪いの問題でもない。ゆっくり急がないで取り組んでください。すると少しずつ見えてくる。ぼんやりとでも見えてくる。主イエスは繰り返して手を置いてくださいます。どのくらい時間が経ったか分かりません。導きを繰り返し与え続けてくださいます。

 しばらくして彼は「よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」と言います。もう、彼は人に助けを求めないで自立して歩むことが出来るようになった。「村に入るな」とは、自立して歩けということです。最初はぼんやりと、しだいに見えてきて、最後にはっきり見えるようになった。時間がかかった。これはたいへん大事なことです。この盲人のいやしの出来事が表していることは、信仰の開眼へのプロセスなのです。信仰的な目が開かれる道筋です。少しずつ分かってくる。あまり急ぐ必要はありませんし、いっぺんに分かろうとしなくていい。信頼して見つめていると、しだいに見えるようになってくるのです。