2014年5月4日礼拝説教 「しるしと信仰」

             2014年5月4日

聖書=ルカ福音書11章29~32節

しるしと信仰

 

 「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた」。テレビで「行列の出来る店」が放映されます。そんな光景を見ると、人の集まらない教会をどうしたら行列の出来るような教会にできるだろうかとあらぬ事を考えてしまう。そんな私から見たら、この情景はすばらしい。空港に外国の有名俳優やタレントが来た。ウワッと人が取り囲んで身動きできなくなるような光景です。主イエスを目指して人の輪が押し寄せ、押し包んでいる。さすがにイエス様だ、とうらやましくなる光景です。

 ところがこの人たちに対して、主イエスが語られたお言葉はたいへんきつい言葉で、歓迎する甘い言葉ではない。主イエスは冷水を浴びせるように「この時代は悪しき時代だ」と言われた。時代がいい・悪いとは、私たちも口にします。例えば、景気が悪くて困った時代だと。しかし、この時代はユダヤの長い歴史の中では最悪の時代とは言えません。ローマ帝国の統治下にあったが、ローマの支配はそれ以前のアッシリアやバビロンの略奪的な支配ではなかった。住民には大幅な自治が許され、経済的にも豊かさを経験していた。神殿の祭りも守られていた。

 主イエスはこの平和と繁栄の時代を、「よこしまな時代だ」と言われた。それは宗教的な理由です。主イエスは言われます。「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。主イエスを取り囲んだ人々の要求は「しるしを求める」ものでした。「しるし」とは奇跡のことで、イエスが救い主であることの証拠、身の証しです。「しるし」そのものは悪ではなく、弱い人を信仰に導く手段として与えられている。主イエスはみ言葉に添えてしるしを示してくださった。口の利けない人をいやし、5千人以上の人を5つのパン、2匹の魚で満腹にした。病む人をいやし、死んでいたヤイロの娘をよみがえらせた。主イエスはこれらのいやしや奇跡を示して、主イエスがどういうお方かと、分かるようにしてくださった。

 ユダヤの人々はそれで満足しなかった。もっと大きなしるし、もっと劇的なしるしを見せろと言って、主イエスを取り囲んだのです。モーセは紅海を分けてイスラエルの人々を通した。ヨシュアもヨルダン川を2つに分けて乾いた地を通るように通過させた。エリヤは天から火を呼び降ろした。そういう劇的なしるしを求めた。これは荒れ野の誘惑と言ってよい。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとすぐ悪魔の誘惑を受けた。その中で神殿の屋根から飛び降りてみろ、というのがあった。神殿には多くの人が集まっている。神殿の高い屋根の上から鮮やかに飛び降りて傷一つ負わなかったら、見ている群衆はすばらしいしるしだと驚嘆するだろう。しかし、主イエスは目にもの見せるような劇的なしるしを拒絶された。主イエスは、しるしを求める人たちに2つの旧約物語を引用して語られます。

 1つは、南の国の女王のことです。この女王とは列王記10章に記されているシェバの女王です。彼女は人づてに「ソロモンの優れた知恵と名声」を聞きました。すると女王は困難と危険を顧みずに問題の解決を求めて地の果てからはるばるとソロモンのもとにやって来た。この積極性、ひたむきさが、今の時代の人々にない。彼女が行動を起こしたのは、ソロモンの名声を聞いただけです。しかし、知恵を求めて、国の将来を考えて、彼女は決断して、ソロモンのもとを訪ねてきた。この決断、この積極性、このひたむきさが、この時代の人々にはない。ソロモンに勝る神の子がここにいるのに、真剣にイエスに求めようとしないと言われているのです。

 2つは、ヨナのことです。主イエスは「しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」、つまり「ヨナのしるし」は与えられると言われた。これこそ決定的なしるしです。しるしを与えないのではありません。明らかにしるしを与えて下さいます。しかし、神の与えるしるしをしるしと見ないならば、何の意味もありません。

 ヨナは、紀元前8世紀に北イスラエルに現れた預言者です。ヨナはニネベという町に行って神の言葉を伝えなさいと、神に命じられた。ニネベはアッシリア帝国の首都です。そんなところへ行って神の言葉や神の愛を伝えられるかと、愛国者ヨナは思った。ニネベの人々は神の言葉など聞きはしない。殺されるだけだ。ヨナは神の召しを断り、船に乗って「主の前を逃れ」た。しかし、海の中に投げ込まれ大きな魚に呑み込まれ、魚の腹の中で3日3晩を過ごす。その魚の腹の中で、ヨナは悔い改め、吐き出され助けられた。そしてニネベに行って神の言葉を語った。するとヨナが考えていたのとまったく違い、ニネベの町の人たちは素直にヨナの説教を聞いて悔い改めた。おもしろいことにヨナが腹を立てるほどにニネベの町の人々は素直に悔い改めて神を信じたのです。

 主イエスはこのヨナのしるしを梃子(てこ)にして、ご自分のことをお語りになります。「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」。人の子イエスの存在自体が、しるしとなるのだと語られた。主イエスの十字架の死と3日目の復活です。これこそ、神が提供してくださる最大のしるしです。主イエスが救い主、まことの神の御子である身の証しです。死んで3日もたったイエスが復活して、多くの人の目の前に立ってくださった。これこそ、イエスが神の御子である証拠です。主イエスのお言葉に耳を傾けようとしないのは、素直に神に膝を屈めることの出来ない突っ張ったままの心の状態があるからです。神のなさるすばらしい御業に驚き、素直に御業の前に膝を屈める心が求められています。どうか素直な心で福音書を読んでください。