2014年4月27日
聖書=ルカ福音書11章27~28節
まことに幸いな人
この個所は、14節以降のベルゼブル論争の続きです。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は』」。イエスの悪霊追放とそれに続く教えに感激した女性のほめ言葉です。主イエスは多くの場合、非難の対象でした。しかし、ここでは賞賛の言葉を受けている。私たちが生きる時、非難と賞賛がつきまとう。非難されると、クシュンと落ち込んでしまう。それ以上に危険は賞賛です。非難にめげないでも、賞賛にはおぼれてしまう。いい気になってしまう。人の賞賛を目当てとしてしまう。人生には非難と賞賛は付きものです。振り回されて一喜一憂していると、ノイローゼになってしまう。非難にも賞賛にも動揺することなく、神を仰いで生きることを人生の基軸にしてまいりたい。
ある女性が、主イエスを指して、イエスの母である人は「なんと幸いだ」と叫びました。この場に母マリアがいたかどうかは分かりません。状況から考えると、ここにはいなかったでしょう。偉大な人物がでるとその母親が取り上げられます。あのお母さんが偉かったからだと。主イエスの母であるから偉い、特別な存在だと考えることは大きな間違いです。聖書は血のつながりや血縁でどうのこうのと言うことは決してありません。人の救いは、いかなる意味でも血筋によらない。ただ信仰のみによるのです。
主イエスは今、救い主の母となったマリアの幸いではなく、まったく新しい幸いをお語りになられた。それは「神の言葉を聞いて、守る人の幸い」です。主イエスはこう言われました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。神の言葉を聞くことがどれほど幸いであり祝福に満ちたものであるかを覚えたい。女性にとり優秀な子を持つことは大きな喜びでしょう。しかし、神の言葉を聴くことは、それに勝る幸い、祝福なのです。イエスを息子に持つことに勝る祝福なのです。
神の言葉を聞くことが無視される時代がある。預言者アモスは紀元前8世紀の人です。北王国イスラエルが最も繁栄した時代の人でした。ヤロブアム王の支配のもと、物質的な繁栄を誇っていた。経済的な繁栄は人々の心から宗教心を奪い、もう神に信頼しなくても、神に助けを求めなくても、自分たちの力で国を繁栄させると豪語していた。20年ほど前のバブル期の日本の姿でした。その中で、預言者アモスは「御言葉を聞く飢饉」が来ると預言した。アモス書8章11-12節「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」。やがて神の審きによってイスラエルの民の目が覚める時が来る。しかし、その時では遅いのだ。いつでも神の言葉を聞くことが出来ると、軽く考えてはならない。経済的な繁栄に酔って、神の言葉に聞こうとしない時代は、大きな災いの時なのです。今日もそうではないでしょうか。
なぜ、神の言葉を聞かねばならないのか。それは第1に、人は御言葉において神と出会うからです。罪人である人間は、「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけの言葉を聞くことなしには、神との出会いは生じないのです。エデンの園における出来事はまことに示唆に富む出来事です。罪を犯した人間は神に背を向けて逃れ、身を隠してしまう。自分から神を求めはしません。しかし、神が捜し求め、神が呼びかけてくださいます。教会の伝道の必要性はここにあるのです。教会は、神の呼びかけの言葉を語るのです。神の呼びかけの言葉を聞いて、人は神と出会うのです。ここに救いがある。罪人を捜し求める神の言葉を聞くことなくして、救いはありません。救いを得るためには、御言葉を聞かねばならないのです。
第2は、御言葉において神の赦しの言葉を聞くからです。神はみ言葉をもって語りかけてくださいます。そして、神の言葉を聴いて信じる者に「赦しの言葉」を語ってくださいます。人間には「わたしはお前を愛している。お前の罪を赦し、お前を受け入れる」という神の言葉なしには、存在を肯定し、自分の存在自体を喜ぶ確かな土台はないのです。人は、神によって、神に向けて作られました。ところが、罪を犯し神から離れてしまいました。その結果、人間は人間として生きる存在の根拠を失ってしまった。宇宙に漂うゴミみたいな存在になってしまった。神はこのような私たちに生きる根拠を与えてくださいます。それが十字架の贖いによる赦しです。主イエスが罪を担い、罪を贖ってくださり、「あなたの罪は赦されている。あなたはわたしのものだ」と宣言してくださいます。これこそ、人の生きる根拠です。この赦しの恵みを根拠にして、「アッバ、父よ」と祈ることが出来る。神の子として生きることの根拠が与えられた。御言葉に聞くことは、自分の存在を肯定し、自分の存在を喜ぶことが出来る根拠を得ることです。
主イエスは言われました。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。「守る」とは興味深い言葉です。基本的な意味は「見守る」です。目をはっきり開いて、目を覚まして見張り続けることです。神の御言葉に、いつも目覚めて心を開いて、心を向けていることです。御言葉がいつも生きて働くことの出来るように心を配っていることです。ある翻訳では「御言葉を保ち続けること」と訳しています。適切な翻訳です。自分に与えられる御言葉が働くのです。聖書を読むたびに、礼拝に参加するたびに、御言葉が新しく与えられます。この与えられた御言葉が、生活の中で生きて、生活を整えてくれるように、目を覚まして見守り続けるのです。私たちはキリストの御言葉によって生きる幸いにあずかっているのです。