2014年3月16日礼拝説教 「主よ、祈りを教えてください」

             2014年3月16日

聖書=ルカ福音書11章1-4節

主よ、祈りを教えてください

 

 ウェストミンスター小教理に「恵みの手段」が記されている。問88「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、何ですか」。答「キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます」。「御言葉、礼典、祈祷」が恵みの手段で、信仰に成長するために大切な方法です。

 「イエスはある所で祈っておられた」。祈りが終わると、弟子の一人が主イエスに「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った。ここで疑問が出てきます。弟子たちは今まで祈りを知らなかったのか。祈ったことはなかったのか。決してそうではない。弟子たちもユダヤ人です。子供の時から教えられてきた。しかし、その祈りは基本的には一定の祈りの文章があり、その文章を記憶して祈った。弟子たちは、ユダヤ教の祈りと主イエスの祈りが違っていることに気付いた。立派な文章を覚えて朗読することではない。もっと自由なものだ、もっと人格的なものだと気付いた。

 そこで主イエスが祈っているように祈ることを求めたのです。祈りは、教えられて祈るものです。主イエスから教えられ、それが次々と伝えられていく。祈りの継承です。信仰の先輩から、牧師から口伝えに祈りを教えてもらいます。集会の中で祈りの言葉を聞いて学ぶのです。祈りの集会に出席しなければならない大きな理由がここにあります。私は求道者に祈りを教えることが牧師の大切な務めだ考えています。入門講座の中で信仰の道筋をお話しして祈ることを勧めています。今まで祈ったことのない方です。「私の後について祈ってください。私が『天にいます神様』と言ったら、あなたも『天にいます神様』と言ってみてください」と、短く区切って祈り、後をついて祈っていただいています。親の口真似から子供が言葉を学ぶように、一言一言、祈りの手ほどきをさせていただいています。

 「祈るときには、こう言いなさい」と、主御自身が教えた大切なポイントだけをお話ししたい。第1は、「父よ」と言う呼びかけです。ここにキリスト者の祈りの特徴がある。神を「我が父よ」と呼ぶ。ここで弟子たちに教えられた言葉は「アッバ」です。幼児語です。幼児が父親を呼ぶ言葉です。たいへん親しい信頼の中にある呼びかけです。ユダヤ教の世界では、こんななれなれしさで「天にいます神」を呼ぶことはなかった。神は大いなる恐るべきお方、天地万物を造られた全能の神。その神を「アッバ、おとうちゃん」と呼ぶようなことはユダヤ教では考えられなかった。

 主イエスご自身が神を「アッバ」と呼んでおられた。その基本には独り子としての主イエス、その父としての神という親しい交わりがある。その父と独り子との親しい交わりの中に私たちをも導きいれてくださるのです。あなたがたも「アッバ」と祈れと言われる。そうするならば、主イエスと同じ、神との親しい関係、神との父子関係の中に入ることが出来るのだと言われた。私たちが神を「アッバ」と呼ぶために、主イエスは十字架を担われたのです。十字架のキリストを信じるところで罪が赦され神の子とされる。私たちはキリストと共に、「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。父親に安心して頼り切る子どものように祈る者となるのです。

 ここで主が教えた祈りは、後に「主の祈り」とされるものです。3つのことが教えられています。第1は、「御名が崇められますように。御国が来ますように」です。神が賛美されることを祈りなさい、神の国が進展することを祈りなさいと、教えられた。神中心の祈り、神を第1とする祈りです。このような祈りは、主イエスから教えられるのでなければ祈ることが出来ません。自然な肉のままでの私たちであるならば、祈りをしても自分中心の利己的な祈りをするのが関の山です。主イエスはあるところでこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ福音書6:33)。先ず、神が賛美され、神の恵みの支配が来ますように、神の恵みの支配が広がりますようにと祈り願うことが、祈りの第1なのです。

 主の教えられた祈りの第2は、自分の生活の糧のために祈れということです。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。祈りは、決して精神的な事柄だけのためではありません。時折、世俗的なことを祈り求めるのは避けるべきだと考える方がおられます。決してそうではありません。私たちの生活の糧も神の祝福のもとに置かれているのです。私たちの体が生きていくために不可欠なもの、衣食住のすべてが神の祝福として与えられるのです。私たちはこの体で生きていく。この体のためにも祈るのだ、求めるのだと、教えられているのです。

 主が教えられた祈りの第3は、赦しを求める祈りです。「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。この祈りは、先ず何よりも「わたしたちの罪を赦してください」という祈りです。これが悔い改めの祈りです。神の前で、自らの罪を悟って私の罪を赦してくださいと祈るのです。一日に一回でも良い。多ければ多いほどいい。神の前に静まって自らの罪の赦しを求める祈りをする時に、私たちの魂の感覚が変わるのです。キリストに在って赦されていることを深く実感する。それが祈りの時です。その時に、赦しについて細やかになる。教会の温かさは家族のような温かさというのではない。互いに赦しを祈り合うような群れとなることです。キリストに在る赦しの見える形が教会を形作っていくのです。