2014年3月2日礼拝説教 「隣人となられたキリスト」

           2014年3月2日

聖書=ルカ福音書10章25-37節

隣人となられたキリスト

 

 「良きサマリア人の例え」です。この例えが示す第1は、隣人愛がいかに稀で少ないかということです。エルサレムからエリコに下る道は山賊の名所で警備も行き届かず、野放し状態です。エルサレムからガリラヤに抜ける近道で危険を承知で多くの人がこの道を利用した。ここに登場する旅人も先を急いでいたのでしょう。危険が予想された道をとり、追いはぎに遭い、すべての物を奪われ、半死半生の状態で道端に倒れ伏してしまった。

 祭司とレビ人が登場します。この人たちは追いはぎに遭って倒れている男を見て見ぬふりをして通り過ぎた。彼らは心中こう思った。「この男は自分で分かっていて危険な道を通ったんだ。自業自得だ。助けるだけの時間はない。この男は死ぬかもしれない。死体に触れたら汚れた者になり、神殿の奉仕も出来なくなる。ここは危険だ。早く行かないと同じような目に遭うかもしれない」。だから祭司もレビ人も「道の向こう側を通って行った」。自己中心の人間の姿がここにある。これは祭司やレビ人、律法の専門家だけでなく、今日の私たち、人の不幸をも傍観する人間の姿です。

 第2は、このサマリア人の示した「敵をも愛する愛」です。この旅人は当然、ユダヤ人です。傷ついた旅人を見て、見過ごしに出来ず助けて介抱したのはサマリア人でした。サマリア人はユダヤ人と異邦人の混血です。正統的ユダヤ人と対立し、長い間敵対関係にあった。血縁的に近い関係にあるだけに、かえって全くの異邦人よりも激しい憎悪があった。サマリア人はユダヤ人に対する憎悪という大きな溝を乗り越えて愛の行為をした。

 サマリア人は傷ついている旅人を見て「憐れに思った」。腹の底から同情し、痛みを感じ取り、心が突き動かされた。「憐れに思う」ことが、愛の行為の動機です。損害をも引き受ける愛、身銭を切る愛と言ってもいい。「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ」るには相当な時間と労力が必要です。危険を覚悟して、自分が乗っていたろばを降りて、代わりに半死半生の旅人を乗せます。旅人は何もかも奪われて、宿の費用も治療費もありません。一切の費用をサマリア人が支払った。「翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」。翻訳で出てこない言葉がある。日本語は主語を省略する。「わたしが支払います」と言う、身銭を切る愛でした。

 この例えの中で、誰が永遠の命を受け継ぐ善い業をしたのだろうか。強盗ではない。祭司やレビ人でもない。サマリア人でした。敵である者のために、危険を冒して介抱し、旅人が再び立ち上がれるまで親身に世話をしたのはサマリア人でした。永遠の命を受け継いで神の国に入ることのできるのはこのサマリア人だけです。このサマリア人とは誰のことでしょう。私ではないし、私の周りにもおりません。むしろ、敵を愛するよりも、敵を憎んでしまう。いつでも、どこでも、すべての人に心を開いて愛を行うことなどまったくできない。愛の実行に破産している。

 このサマリア人について思い巡らせば、どうしてもイエス・キリストに行き当たる。この個所に主イエスを物語る言葉はありません。イエス・キリストを読み取ることは深読みだと言う人もいる。しかし、このサマリア人とイエス・キリストとは重なり合うのです。この良きサマリア人の例えを語られたお方は、十字架の死によって私たちを罪と悲惨から救い出すために、私たちのサマリア人となってくださったのです。キリスト教会は伝統的にこの良きサマリア人はキリストご自身であると理解してまいりました。はらわたが痛むほどの憐れみこそ、キリストにおいて表された神の御心なのです。罪人の悲惨と罪に対して神の御心が痛むのです。

 主イエス・キリストは、その神の痛みを引き受けられて、十字架の死という大きな代価を支払って私たちの罪を償ってくださったのです。私たちは罪を犯しています。強盗としての罪、祭司・レビ人としての罪を犯しています。罪を犯したままでは永遠の命を受け継ぐことはできません。そのため、主イエスは私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださったのです。この十字架のキリストを信じるとき、私たちの犯したすべての罪が赦されます。どんな罪でも赦されます。私たちのサマリア人となってくださった主イエスによって、私たちは今、キリストの赦しの中にあります。この私たちに、主イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。良きサマリア人の介護を受けて生かされた人に対する言葉なのです。キリストを信じて、罪が赦されて生きる私たちの新しい生き方が「行って、あなたも同じようにしなさい」という生き方なのです。

 ここから私たちは小さなキリストとして生き直すのです。隣人となってくださったキリストによって罪が赦され、神の愛と痛みとを知る者とされた。その私たちのキリストへの新しい服従が、「行って、あなたも同じようにしなさい」です。小さなキリストとして、私たちもサマリア人の業をするのです。完璧に行うことはできません。破れっぱなしです。失敗します。しかし、失敗しながらでもキリストへの新しい服従として、私たちもサマリア人の奉仕をしていくのです。憐れみに生かされている者として、私たちもまた、良きサマリア人の心に生きることが出来るようになるのです。主イエスが私たちの隣人となってくださったように、私たちも隣人として生きることの道が開かれていくのです。私たちの奉仕の業はわずかばかり始めたに過ぎません。しかし、その奉仕の業に現に生き始めているのです。隣人となる奉仕の働きが確かに始められているのです。