2014年2月23日礼拝説教 「あなたの隣人は誰か」

          2014年2月23日

聖書=ルカ福音書10章25-37節

あなたの隣人は誰か

 

 「よきサマリア人の例え話」が、隣人愛について物語ることは確かなことですが、単純な隣人愛の勧めではない。隣人愛に生きることが出来ない自分に失望したり、隣人愛を受けられないと落胆するところから、この物語は考えて行かねばならない。失望し落胆したところがスタートなのです。

 主イエスの例え話は、それをお語りになったきっかけがあります。例え話の枠組みと言ってよい。主イエスが良きサマリア人の例え話をお話になるきっかけとなった出来事が理解の鍵となります。「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」。問われている事柄はユダヤ人の信仰生活の基本をなす律法の問題です。「何をしたら」とは、どんな律法、どんな戒めに従ったら、ということです。ユダヤ人は律法に従って生活したら永遠の命を得ることが出来ると考えていた。永遠の命を受け継ぐことの出来る急所となるような戒めは何かという問いです。答えは律法の専門家ですから本人がよく知っている。聞くまでもない。それを改めて聞くことはイエスが万一間違えたり、見当違いを言ったら、あざ笑ってやろうとの悪意が根底にあるのです。

 主イエスは逆に質問をもってお答えになります。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。「どう読んでいるか」は、別の訳し方をすると「あなたはどのように唱えているか」となる。ユダヤ人は日に5回、祈りの時を持ちました。その時に、律法の大切な部分を唱える習慣があった。今日、私たちが祈りの度に「主の祈り」を唱えるようにです。この人はこの習慣はきちんと実行していたでしょう。あなたは毎日、なんと唱えているのかと、主イエスは問われた。

 当然のことですが、律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。神を愛することと、隣人を愛すること、この2つの戒めをいつも唱えていると答えた。すると主イエスは「正しい答えだ」と言われました。あなたはちゃんと分かっているではないか。その唱えているとおり「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われた。この律法の専門家は、イエスにしてやられてしまった。それだけではない。「それを実行しろ」と言われてしまった。よく分かっていたことです。そして、うろたえてしまった。

 そこで彼は「彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」。主イエスに「それを実行しろ」と言われて、大切な隣人愛の律法を実行できない自分にハッと気づいたのです。とこかで取り繕わざるを得なくなったのです。「わたしの隣人とは誰か」、この問いは自己弁護、自己正当化の問いですが、今日の私たちにとっても非常に重い問いなのです。律法の専門家はこう言っているのです。「わたしも隣人愛に生きたいと願っています。しかし、『隣人とは誰か』をはっきりさせていただきたい。そのことを明らかにしていただかないと、私たち普通の人間は生きていくことが出来なくなります」。こういう意味の問いなのです。

 隣人愛は、無制限にすべてを要求します。電車に乗ったとします。疲れている。自分よりも気の毒な人がいたら席を譲ってあげようと考えている。しかし、誰にでも譲っていたら私は座れない。疲れ切ってしまう。学校の先生に出会ったら「どうぞ」と言うでしょう。父親と一緒だったら、「お父さん、座りなよ」と言うでしょう。けれど無限に席を譲ることはないと考える。隣人愛の実行に枠をはめる。いろいろな寄付のアッピールがくる。他教派の教会や多くの慈善団体、NPO法人からいろいろな支援要請が来ます。全てのアッピールに応えていたら、教会会計も牧師の家計も成り立ちません。そこで、これにはお応えしましょう、これにはお応えできないと振り分ける。無制限に隣人愛に生きることは、実際には出来ないのです。

 この良きサマリア人の物語は、私たちの罪の実体を示してくれる物語なのです。私たちは手軽に愛を語ります。そして、愛を語ることによって、愛を実践しているかのように、愛の人であるかのように自分でも思いこんでしまっている。そのような私たちに、どれほど愛に遠い存在であるかということを明らかにする物語なのです。今日の私たちもまた隣人愛の戒めを知っています。しかし、知っていることと、その通りに生きることとはまったく違うのです。このよきサマリア人の例え話は、そのような私たちに対して決してこの例え話のようには生きることは出来ないこと、むしろ助けを必要としている隣人を見て見ぬ振りをして通り過ぎてしまうような罪の姿をさらしていることを自覚させるための物語なのです。

 神を愛し、隣人を愛するようにと命じられているにもかかわらず、この最も大切な2つの戒めを守ることが出来ない、違反するばかりである。ハイデルベルク信仰問答は問5で「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と問い、「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」と応えます。ここに、私たち人間の罪の実相があるのだと、ハイデルベルク信仰問答は指摘するのです。主イエスが、このよきサマリア人の例えで、先ず私たちに示しておられるのは、このことなのです。愛を知り、愛に生きようとしても、無制限には愛することは出来ない。自分を中心としてしか愛し得ない者であることが暴露されてしまう。愛することについても自己中心なのです。しかし、罪を罪として悟ることは、大きな幸いなのです。