2014年2月16日礼拝説教 「何を喜びとするか」

              2014年2月16日

聖書=ルカ福音書10章17-24節

何を喜びとするか

 

 キリスト教神学では「喜び」のような感性に関わる事はあまり取り上げません。しかし、聖書では大事なこととして取り扱います。ルカ福音書15章で3つの失せものの例えが語られます。それらが見つかると「天において大きな喜びがある」と記される。パウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言う。「喜び」は聖書の大きなテーマです。主イエスも、ここで「喜び」について語られています。あなたは何を喜びとするか。何を喜びとして人生を生きているのか、と。

 伝道に送り出された72人が、主イエスの元に帰って来て報告会を開いた。彼らは輝かしい伝道の成果を披露します。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。この言葉に弟子たちの伝道理解が示されています。主イエスも「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われます。伝道はサタンと悪霊との霊的戦いです。今日、伝道の意味を捉え直すことが求められている。主イエスと72人の伝道理解はサタンや悪霊との霊的戦いで、人が救われることはサタンがその支配力を失うことという理解です。神から離れている人は、自分では自由だと思い込んでいるが、実はサタンの虜になっているというのが聖書の理解です。罪によって自由を失い、サタンの支配のもとにあるのです。

 伝道は、サタンの虜になっている人を罪と滅びから解放することです。主イエスは悪霊につかれた人を解放しました。これが伝道の原点です。悪霊はいろいろな形で人を虜にします。音楽や趣味という形で、出世競争やエリートになるという夢、平穏な生活という形で人を虜にしています。その中から解放して神の子の自由に入れるのが伝道です。伝道は主権の交代です。キリストの恵みの主権の下に生きる者となる。これが伝道です。

 72人は喜んで帰って来ました。彼らは伝道の成功を手放しで喜んでいる。この喜びはよく分かる。伝道者を活かすのはこの喜びです。しかし、主イエスは伝道の成功を「喜んではならない」と言われた。正確には「喜び続けてはならない」。伝道の成功を喜び続けていていいのではない。本当の喜びは別にあると言われた。もっと大事な喜び、根本的な喜びがある。

 主イエスは言われた。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。名が天に書き記されているとは、神の国の出生登録がされていると言っていい。あなたは神の子だ、神の民とされているということです。これが喜びの中の喜び、まことの喜びだと言われた。旧約から新約を貫いて、神の御許に「命の書」があると理解します。神の記憶のことです。主イエスは天にある命の書に、神が私たちを一人一人、その名前において永遠に刻み込んでくださる。神が記憶してくださると言われた。

 命の書への登録は、私たちがどんな伝道活動をしたかで決まるのではない。私たちの生涯がこの世的に見て成功であったか失敗であったかで決まるのでもない。この命の書への登録は、どのような働きによるのでもなく、ただキリストを信じる信仰によるのです。「私は年をとってから信仰に入ったので何の働きもできない」などと言う必要はない。「生まれた時から病気で、何の働きもできなかった」と嘆く必要もない。キリストを信じる信仰こそ人生最大の事業です。名前が天に登録される。これは神の恵みによる。神が私たち一人ひとりを愛し選んで信仰を与えてくださる。そして神がその名をしっかりと命の書に記していてくださる。私の救いはここに確定しているのです。これこそ失われることのないまことの喜びです。

 この喜びは私たちの喜びだけではない。私たちが救われることは、私たちだけの喜びではない。キリストが大いに喜んでおられ、天において神と御使いたちが喜んでおられます。主イエスは私たちが神の民となり、私たちの名前が天に登録されていることを、何より深く喜んでくださるのです。

 次に、主イエスが喜びに溢れて父なる神を賛美します。ここにも喜びが記されています。キリストの喜びです。それが私たちの喜びとなる。主イエスが語ってきた救いの恵みが、弟子たちに啓示されているということです。主は喜びに溢れて言います。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。主イエスの周囲に集まってきた人々は、指導者層ではなく、漁師や徴税人、罪人・遊女と言われる人たちでした。主イエスは、このような無力で知識のない人々が集まったことを本当に喜ばれた。主はこの人々を「幼子のような者」と言われます。無学な者ということ、しかし神に信頼する者です。この世的には無知・無学と言われても、神に信頼する幼子のような弟子たちに、神は信仰の真理を啓示されているのです。力のないこと、知恵の乏しいこと、経済力の乏しいことなどを嘆く必要はない。大事なことは幼子のように神に信頼することです。

 主イエスは言われます。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず」。これがもう一つの喜びです。キリストの弟子であることの幸い、すばらしさです。旧約の信仰の偉人たちも見聞することができなかった恵みの出来事を、キリストの弟子たちは見聞している。実際に体験しているのです。旧約の人たちははるかに救いの出来事を信じて待っていた。ところが新約のキリストの弟子はまったく違う。今、キリストの弟子は救い主がこの世界においでになり、罪人の身代わりとしてつぐないをしてくださることを知っている。救いを現実に見ているのです。これこそ、何よりの幸いであり、私たちの喜びなのです。