2014年2月9日礼拝説教 「伝道への派遣」

              2014年2月9日

聖書=ルカ福音書10章3-16節

伝道への派遣

 

 主イエスは72人という多くの弟子を伝道のために派遣しました。主イエスは「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」と言われます。伝道は主イエスの厳粛なご命令です。伝道はしてもいい、しなくてもいいという中途半端なものではありません。はっきり命じられていることです。この72人は今日の私たち全ての信徒です。伝道は牧師や伝道者などの一部の人の務めではありません。教会全体が福音宣教に派遣されているのです。

 主は伝道者への餞(はなむけ)の言葉、伝道者の心得をお語りになります。第1は、あなたがたを派遣することは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われた。伝道は激しい戦いだということです。「狼の群れ」とはこの世のことです。神を否定し、自己中心に生きる人の世界です。サタンが活動している暗闇の世界に対する戦いなのです。話を聞いて貰えない。受け入れて貰えない。むしろ、危険な状況に直面する。狼に小羊が食い殺されてしまうかもしれない。負け戦を覚悟しなければならない。

 しかし、ヨハネ福音書は暗闇の世界は最終的には勝利しないことを告げています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。口語訳では「闇はこれに勝たなかった」と訳しています。どう考えても弱い小羊の群れが最終的には狼の群れに勝利するのです。小羊の群れには神の守りの御手があるからです。狼の群れの真っ只中でも神のみ手の守りがあることを忘れてはならないのです。

 激しい霊の戦いをするのですから、十分に武装をして出かけることを教えられたでしょうか。決してそうではありません。「財布も袋も履物も持って行くな」。ここには伝道者の生活、生き方の基本が教えられています。財布も袋も履き物も贅沢品ではない。旅行の必需品です。しかし、このような旅の必需品のようなものも神が備えてくださると言われているのです。主なる神に信頼して出ていきなさいと言われた。伝道は神の働きであって、収穫の主がいますところでは、それらのものは添えて与えられるのです。伝道することは神に信頼することです。主イエスは「先ず、行きなさい。何も持たずに行きなさい」と言われる。アブラハムが「主の山に備えあり」(アドナイ・イルエ)と言ったことは、神の真理なのです。

 第2は、伝道すべき人の家に着いてからです。伝道とは、「平和の子」を探し出す仕事であり、平和をもたらすことです。この「平和の子」は、「キリストを信じて神との平和を得る者」ということです。神の子となる者のことです。伝道は神の子らを招く仕事なのです。神が愛して選んでいてくださる平和の子らがいる。その平和の子を求めることが伝道なのです。

 神が先手を打って平和の子を備えていてくださいます。神が先回りをし、聖霊によってその心を整えていてくださいます。神のご計画があるとしか言い得ない。信仰者が生み出されのは、神が整えていてくださった、備えていてくださったという以外ないのです。御言葉を語って、神が備えていてくださる人たちを捜し出すのです。出会う人すべてに平和の福音を語る。それに応えてくれる人が平和の子です。その人には「あなたがたの願う平和はその人にとどまる」のです。その人は神の子として生きるのです。

 最後に「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ」なさいというみ言葉です。このみ言葉は福音の自由を物語る大切な言葉です。日本人は食習慣について自由ですから、主イエスの言われたこの言葉の重大性を見落としてしまう。弟子たちが、どこかの町に入り、迎えてくれる家がある。「どこかの町」の「どこかの家」は、必ずしもユダヤ人の町、ユダヤ人の家とは限らない。主イエスのガリラヤ伝道を見ても、ユダヤ人の町以外に「ゲラサ人の地方」にも行き、サマリヤ人の町にも行かれている。主イエスは人を人種や性別で差別なさいませんでした。

 72人が出かけていく「すべての町や村」の中には、当然、異邦人の町で異邦人が主イエスの弟子を快く迎えてくれることもある。そこの家での飲食の問題を取り上げている。主イエスは「出される物を食べ」なさい、つまり自由に食べなさいと言われているのです。しかし、この時代、ユダヤ人の食習慣は清い動物と汚れた動物とを峻別していた。汚れた動物は食べることはおろか触れることも身を汚がすことだと考えていた。旧約レビ記10章に清いものと汚れたものに関する規定があるからです。

 その汚れた動物の代表は豚です。当時のユダヤ人は異邦人とは食卓を共にすることはありませんでした。その中で、主イエスは異邦人の家庭があなたがた伝道者を迎えてくれることがあった時には、ユダヤ人の家庭に迎えられた時とまったく同じように、「出されたものを」拒むことなく、選り分けることなく、自由に「食べなさい」と言われたのです。

 今日からはどうと言うこともないように思われるかもしれません。この時代、主イエスのこの教えは革命的なことでした。ここで旧約の食物規定の律法が乗り越えられ破棄されている。主イエスご自身によって旧約律法の枷が破棄されたのです。主イエスの語られたことの意味が弟子たちに本当に分かるようになったのは、もう少し後、使徒言行録の時代になってからでした。使徒言行録10章にペトロの見た夢が記されています。ここから初代教会の異邦人伝道が具体的・本格的に始まったのです。異邦人にもユダヤ人と差別なく、神の救いの道が開かれていると確信して、弟子団の代表者ペトロを先頭にして異邦人世界への伝道が始まっていくのです。神は私たち罪人を罪のあるまま、汚れたままで受け入れてくださいます。福音の恩寵性と福音の示す自由を大切にしなければならないのです。