2014年2月2日礼拝説教 「収穫は多いが働き手が少ない」

              2014年2月2日

聖書=ルカ福音書10章1-2節

収穫は多いが働き手が少ない

 

 主イエスは72人の弟子を伝道に派遣された。「ほかに」とは12使徒以外にということです。72人は「使徒」とは呼ばれていません。しかし、「任命し」「遣わされた」。彼らも伝道者として任命され派遣された。この72人は、どのような人たちであったのか。主イエスの周りに弟子と言われる人がどのくらいいたのか。そう多くはなかったであろうというのが定説です。主イエスと生活も一緒にしていたのは12人でした。その周りにこの72人と言われる程度の人が、いつでも主の呼びかけに応えて集まっていたのではないか。72人は12使徒以外の一般信徒と言っていい。72という数字は創世記10章のノアの子孫である諸氏族の数と言われています。世界に広がっているノアの子孫・世界に広がる神の民を表している。72人の派遣は世界への伝道の先駆けと言っていいでしょう。

 主イエスが天にあげられた後に伝道を担うのはキリストの弟子たちです。12使徒だけでなく全ての弟子、全ての信徒が伝道を担い、世界中に派遣されて教会を建てあげて行かねばならない。そのため主イエスは使徒だけでなく、全ての弟子に伝道の教育を施しておられます。全信徒が福音伝道の担い手、伝道者として任命されているのです。伝道の主体は、主イエス一人から、12人に、72人に、さらに多くの人へと次第に広げられている。私たちもこの広がりの中にいます。72人は私たちです。主はご自分が行くつもりの町々村々に私たちを代理者として遣わしておられます。

 主イエスは、「二人ずつ遣わされた」。使徒言行録を読むと、初代教会の伝道はペアを組んで行われている。説教するペトロの傍らにヨハネがいます。パウロほどの有能な伝道者も同伴者を持つ。同伴者が見つからないなら「一人で行く」と、パウロは決して言わない。同伴者が見つかるまで待つ。説教する者の傍らに寄り添うようにしてもう一人立つ。これが初代教会の伝道の姿で、主から始まっているのです。これは伝道は個人の業ではないということです。主のみ業であるからです。福音を宣べ伝える伝道はキリストの働きの延長です。個人プレーや自己中心、自分勝手は、キリストの働きではありません。助け合い、支え合い、戒めあうために、主は二人ずつお遣わしになられたのです。伝道はチームワークです。私たちの教会が長老主義をとることも「二人ずつ」の派遣に根ざしています。牧師と同じ権能を持つ長老が何人かいて、共に教会の運営を考え、共に協議して伝道を担い、時には互いに忠告しあう。これが長老主義です。

 主は派遣に際して言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。 第1は、伝道が収穫に例えられ、収穫の主は神であると語られます。伝道の主体は神なのです。伝道は神が主人で、神が責任を持っておられ、神が働き人を遣わしておられるのです。私たちは神の管理しておられる伝道の畑で働く働き人に過ぎません。伝道活動の中でさまざまな失敗や挫折を味わうこともありますが、神が私たちのすべての奉仕の業を生かし用いて完成してくださいます。神に信頼して、なすべきことをなしていくのです。

 第2は、「収穫は多い」と言われた主イエスのお言葉を正面から受け止めることです。多くの人は、この主イエスのお言葉の逆を考えるのではないか。「収穫は少ない」と。しかし、ここも神の畑なのです。田畑の実りがそうであるように、人間が稔りを作るのではなく、収穫の主が収穫を生み出してくださいます。収穫には時がある。働き人は神の生み出してくださる収穫を刈り取るだけです。伝道する時、悲観は禁物です。あきらめてはならない。神は不思議なことをなさるお方です。信仰には遠いと思う人が思いもかけない方法で救いに導かれるのです。悲観主義に陥ることなく積極的な伝道を展開していく時に、豊かな収穫を実感するのです。

 第3は、「働き手が少ない」。そのために「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われた。「働き手が少ない」とは、伝道者や牧師の数が足りないことか。それもあるが、伝道の緊急性を表す言葉なのです。麦でも米でも収穫には時期がある。一定の時期、一週間か2週間の内に刈り取らねば一年間の労働が無駄になってしまう。刈入れ時を失った穀物は虚しく朽ちてしまう。収穫の時を失ってはならない。そのため主の手もとにいる全ての弟子72人が動員されたのです。「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とは、自分を除いて、自分を脇に置いて、「他の人が働き手となるように」ということではない。他人ごとではない。この私に対して、あなたに対して、働き人となるようにということです。旧約預言者イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と祈ったように祈れということなのです。

 収穫のための働き手というと、稲を刈り、脱穀する表立つ働きを考えてしまう。表だった働き手も必要です。しかし、その人たちだけで収穫のすべての働きが出来るのではありません。「二人ずつ」がここで生きてくるのです。食事を作る人、子守をする人、手筈をつける人、いろいろな人の働きがあって収穫はなされるのです。表に立つ人、人目には立たない裏で働く人も必要なのです。表に立って説教する人、その説教者を支える人、来会者を暖かく迎える人、裏で配慮をしてくれる人、祈りでとりなす人、そのような人たちによって福音の伝道はなされるのです。すべての人が働き手です。若い者も年老いた者も、男も女も、健康な人も病む人も、キリストに贖われた者はキリストの弟子であり働き手なのです。それぞれの状況の中で、キリストの証人・働き手として祈り、奉仕するのです。