2014年1月26日礼拝説教 「弟子としての覚悟」

             2014年1月26日

聖書=ルカ福音書9章57-62節

弟子としての覚悟

 

 主イエスがエルサレムへの旅を始めた直後、3人の弟子志願者が現れた。別々の機会に出会った弟子志願者に主イエスがお語りになられたことを、ひとまとめにして、主イエスに従う弟子の在り方をこれら問答を通して明らかにしようとしているのです。今日、私たちもキリストの弟子として生きることが求められています。私たち自身の歩みを整えてまいりたい。

 第1の人は自分から弟子となることを志願した人です。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と申し上げた。模範的な弟子志願者のように思える。マタイ福音書では、この人は律法学者であったと記す。主イエスはこの人にご自分の苦難の境遇を話して聞かせます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。「枕する所もない」とは、身も心も解放されてホッとくつろいで安穏に休む場所がないということです。

 この人が「どこにでも従う」と言った時、どの程度のことを考えていたのか。この時代、律法学者もあちこち旅をしたが、律法の教師はどこへ行っても丁重なもてなしを受けた。その程度のことではなかったか。キリストの弟子として生きることは、人々から受け入れられないことが含まれている。主イエスの苦難の御生涯を自分も引き受ける覚悟が必要なのです。一部の伝道者だけのことではない。すべての信徒が伝道者です。何故、この世にキリスト者が受け入れられにくいのか。礼拝に出席するために世間の人たちとの交際がうまくいかなかったり、葬式などで焼香をしない。この世とは別の生き方、神の国の民として行動するためです。

 2番目の人は、主イエスから「わたしに従いなさい」と召されています。この人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。ある人は、丁度この時に父親が死んだのではないかと推測します。それであったら、こんな議論するまでもなく彼は家に帰っていた。ユダヤでは肉親を葬ることは聖なる義務です。多くの聖書学者は、父親は死んでいたのではなく、年老いていただけであったろうと推測します。この人が言おうとしたことは「今までイエス様はガリラヤ近辺で活動していた。だからイエス様にも仕え、また家族の世話もできた。ところがエルサレムまでもお供するのは無理だ。先ず子の義務として父の最期を看取り、反対したり妨げる人がいなくなったら、それから専心イエス様にお仕えします」です。

 主イエスは言われます。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。このお言葉は誤解されることがある。キリスト教は葬式など無用としているのではないかと。決してそうではありません。実際に教会では葬儀を大切に取り扱っています。主イエスが言われたのは、第1のことを第1とするようにということです。「神の召しを貫きなさい」と言われた。この人が今、家に帰り、父親が死ぬまで元の生活に戻ったら、今始めている主に従う生活が立ち消えになってしまう、そうあってはならない、と言われるのです。福音を伝える使命に生きなさいと言われたのです。神にも人にもうまく仕えていこうという二股かける生き方を戒められた。日本人は神を第1にするという感覚に鈍いと言われています。神に残り物を捧げるのではなく、先ず初穂を捧げることをしなければならない。先ず主の召しの言葉に従うことを第1として生きることが求められている。

 第3の人も、主イエスに「わたしに従いなさい」と召された。この人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と条件を付けた。「いとまごい」をすること自体は礼儀にかなったことと言える。しかし、主イエスはこの人のこの言葉の中に、この世に対して後ろ髪を引かれるような優柔不断な姿勢を見て取られた。徴税人レビに、主イエスが「わたしに従いなさい」と言われると、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(5:28)とある。好対照です。

 主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。鋤は土を耕す農具で、牛や馬に引かせました。刃がついていて畑の土を一直線に掘り起こしていく。掘り起こされて畝を作っていきます。一直線に掘り起こして行かねば意味がなくなります。そのためには、前の目標をしっかり見つめて鋤を入れていかねばならない。主イエスは農作業の基本を示しながら、伝道者の生き方もそうだと言われた。一旦、鋤に手をかけたら終わりまでまっすぐに行かねばならない。主イエスに従って行こうという者は、前のものをしっかり見つめて、後ろのものを振り返ってはならない。主イエスを信じると決断した時、イエス・キリストだけを見ることを決断したのです。結婚式で「あなたはこの人を愛するか」と問われて、ハイと決断した。この人だけを見て生きると決断した。同じように、私たちはキリストを見つめて生きるのです。

 キリストの弟子とは、実はキリストの愛に捕らえられている人です。やみくもに服従が命じられているのではない。私たちはキリストに結ばれて、キリストとの交わりの中に入れられました。キリストと結ばれることはキリストの職務にあずかるのです。主イエスは、神の国の宣教のために枕するところもない孤独な戦いに耐え、すべてを振り捨てて懸命に働かれています。弟子として従う者も同じ道を歩むのだと語られているのです。ここから信仰生活、弟子としての主に従う生活が始まります。キリストの愛が受け止められるところで、キリストに倣う服従の生活とキリストの福音宣教の職務を引き継いで宣教に生きる歩みが生まれてくるのです。