2014年1月19日
聖書=ルカ福音書9章49-56節
異なる者への対応
49-50節はガリラヤ伝道の一環です。51-56節は、主イエスがガリラヤ伝道を切り上げてエルサレムへの旅路が始まる際のことが記されています。この2つの出来事には共通していることがあります。それは自分たちと違う人たち、異なる者への対応の仕方です。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」。ヨハネが実際に自分でしたことの報告です。仲間でない者がイエスの名によって悪霊を追い出していた。それを見たので止めさせたと言います。主イエスの話やいやしの出来事を見聞きした者が見よう見真似で行って、人の信用を得ていたのでしょう。それを見た若いヨハネの正義感は黙っていなかった。イエスの名による悪霊追放の権威は自分たち12人だけに与えられている。仲間ではない者がイエスの名を用いることは、ヨハネには耐え難かった。ヨハネの止めさせた根拠は「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」ということです。ヨハネの思いの中にあるのは自分たちの仲間かどうかという党派心でした。この仲間だけがイエス様の教えを正しく守っているのだという仲間意識、権威主義があるのです。
主イエスはこれをたしなめられました。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」。主イエスは同じ仲間にならないからと言って、いがみ合ったり、妨害してはならないと言われた。主イエスに対する尊敬と好意なくして「イエスの名を使う」ことはあり得ません。同じような仕え方をしていなくても、イエスの御名を唱える人は味方として受け入れるべきだと言われた。積極的に反対せずに好意を持っている人々は味方なのです。別の仕え方をしていても主の名を唱える人を寛容をもって受け入れなければならないのです。
ローマ・カトリック教会はかつてギリシャ正教とプロテスタントとを異端として排除してきた。プロテスタントもまたお互いを敵視して、熱い戦争さえも行ってきた。同じ礼拝の形式、同じ神学や信条でなければ「間違ったキリスト教だ」と言ってきた。私たちも狭い党派心に捕らわれて排他的になってしまうことがあります。自分たちだけが正統であると思い込みがちです。そして、キリストにかかわる多くの在り方を切り捨ててしまうようなことも起こる。主イエスはこう言われています。ヨハネ福音書10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。違いは違いとして認め合う。しかし、キリストの名の下にあることを認めていかねばならないのです。主イエスの教えられた寛容を身に付けて参りたいものです。
9章51節は、ルカ福音書の大きな区切り目の1つです。ここからエルサレムに向かっての旅行記事となります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。ガリラヤからエルサレムに行く近道はサマリアを通ることでした。主イエスは使いを遣わして宿泊の準備をさせようとした。ところが、サマリア人は主イエスを歓迎しなかった。当時、ユダヤ人はサマリアの地域は避けて通っていた。ユダヤ人は混血のサマリア人をユダヤ人とは認めず、彼らの信仰も異端として差別していた。サマリア人もユダヤ人を憎んで、サマリアを通るユダヤ人を妨害したり、傷を負わせたり、ということがしばしば起こっていた。
人が避けて通るサマリアを、主イエスは救い主としてのエルサレム訪問の最初の町として選ばれました。主イエスは差別されていたサマリアを選ばれた。ところが「歓迎されなかった」。宿の提供を断られてしまった。ユダヤ人に対する強い憎しみが、主イエスに対してもぶっつけられたのです。このサマリア人に歓迎されなかったことは、4章28節のナザレで「町の外に追い出された」出来事と対になっています。主は故郷のナザレで歓迎されなかった。サマリアでも歓迎されなかったと記しているのです。
このサマリア人の仕打ちに憤ったのがヤコブとヨハネでした。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエス様の折角のお心を軽んじるサマリア人など滅ぼし尽くしてしまいましょうと叫んだわけです。今日の言葉で言えば「絶滅作戦」です。
主イエスは「振り向いて二人を戒められた」。「戒められた」は単なる注意ではなく「厳しく叱った」と訳すべき言葉です。断じてそんなことはあるべきではないと、禁じられた。そして穏やかに別の村に向かわれたのです。自分たちの思い通りに行かないからと言って、暴力的な仕方で人に対応してはならないのです。人を信仰に導くような時に、良いことだからと言って暴力的に人を屈服させるような仕方で導いてはならないのです。主イエスは暴力的に人を信仰に屈服させることを禁じておられるのです。
主イエスはまったく違う方法で人を救いに導かれるのです。「わたしが今、ここに来ているのは神の力をもって人を滅ぼすためではない。また人を驚かすような方法で正義を実現するのでもない。むしろ不義に耐えて、人々の罪を担って十字架を負うのだ」と言われた。主イエスの十字架に向かう道はまことに孤独でした。主イエスが差別なく救いの恵みにあずからせようとされたサマリア人から拒まれてしまいます。主イエスはここから人々に捨てられ、罵られ、見捨てられる受難の道を歩み出されました。人々には分かってもらいにくい、弟子たちでさえも理解できない道です。しかし、この主イエスに私たちの目をセットして見つめ続けて参りましょう。