2014年1月12日礼拝説教 「「小」を選ぶ神」

             2014年1月12日

聖書=ルカ福音書9章43b-48節

「小」を選ぶ神

 

 人の子キリストの受難の2回目の受難予告です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。弟子たちは主イエスを「神からのメシア・キリスト」と信仰告白しました。その直後に受難のメシア・キリストについての無理解が顕わになります。受難のメシアということが弟子たちには理解できなかった。弟子たちの悲しい議論はメシアについての誤解が大前提となっているのです。

 「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」。この議論が、まもなく主イエスが十字架につくために最期にエルサレムに向かう直前に起こった。主イエスが目指していた神の国について完全に誤解していたのです。弟子たちは、神の国を現世的、地上王国的なものとして理解していた。イエス様のすばらしい働きで地上に王国が出来たら、俺がいちばんだ、お前はまだまだだと互いに競い合ったのです。

 誰が偉いかということは、世の人々、特に男性の大きな関心です。数人集まると、誰がリーダーシップをとるか気になる。そこから出世競争が始まり、自分には才能や能力があると見せるため背伸びしたり、自己顕示したりする。競争に敗れると劣等感やノイローゼ、心身症などに取り付かれてしまう。この出世競争が信仰の世界、教会の中にも入り込んでしまうことがある。ある教会でのことです。「誰それが長老になった。自分はその人よりも先に洗礼を受けている。そんな男の下風に立てない」と言って仲間を誘って教会を出ていったことが実際にありました。主イエスの十字架を見失うと、このようなことが起こってくる。やがて私たちの教会も長老・執事を選出し教会設立をしようと願っています。その時に、このようなことが起こらないように学んで備えしていかねばならないのです。

 「イエスは彼らの心の内を見抜き」と記されています。主イエスのお気持ちはどうだったでしょうか。悲しみ以外なかったでしょう。しかし、主イエスは弟子たちを叱責しません。信仰者としての基本に立ち戻らせようとします。主イエスは「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ」ます。そして弟子たちに言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と。

 ここで主イエスが子供を側に立たせたのは、子供は罪が無く可愛いとか、子供は信頼性があるとかいうことではなく、極めて単純に低さと小ささの見本としてです。取るに足り無いどころか、大人によって邪魔者扱いされるような子供を取り上げられたのです。数に入らない、邪魔者扱いにされる子供、これがキリストの代理なのだ、キリストを現しているのだ。幼子のような小さな取るに足りない者を受け入れる者が、主イエスを受け入れる者だ。そして、主イエスを受け入れる者は、父なる神を受け入れる者だ。つまり本当の信仰者であると言われたのです。「受け入れる」とは具体的に仲間として迎えることです。仲間として大切にすることです。その人の存在を喜び、その人と共に生き、共に仕え合うことです。

 私の神学生時代の思い出です。ある教会で礼拝の時、一人のお母さんが連れていた子が何かあったのでしょう。激しく叫び出した。なかなか静かになりません。こんなことが何回かあった。ある時、説教中の牧師が突然、講壇から降りて「うるさい。子供を静かにさせなさい。説教は静かに聞くものです」と大きな声で叱った。礼拝が終わって、そのお母さんは私に「もう教会に来れない。ごめんなさい」と言われた。この時から、私は教会における子供の問題について考えるようになりました。改革派教会は契約神学に立ちます。幼児洗礼によって子供を未陪餐会員として受け入れます。子供を恵みの契約の故に受け入れるのです。未陪餐であっても立派な教会員です。泣き叫ぶからうるさいと言って排除してはならない。子供を受け入れることは、教会の基本的な在り方を示す大事なことです。

 ここから、もう一歩考察を進めねばなりません。主イエスは、子供において「大」ではなく、「小」を選ぶ神の御心を示されたのです。ここに旧約から新約を貫く神の民の姿が示されているのです。神の選びの原理が示されているのです。神は初めから小なる者を愛し、小なるものを選び取られるお方であるということです。申命記7:7-8に、神がイスラエルの民を選び出した思い、神の決意が記されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。

 人は「大きいこと」に安心する。大船に乗ったと安心する。しかし、神の選びは逆に「小」を選ぶのです。貧弱を選ぶのです。愚かさを選ぶのです。もちろん、小は成長します。愚かな子供も成長し成熟します。しかし、大きくなり、賢くなった者を選ぶのではなく、小さな子供、愚かな子供を選んで、その成長に目をとめるのです。これがアブラハム・イサクを選んだ神、ヤコブを選んで神の民イスラエルとされた神なのです。主イエスが幼子を教材にして教えておられることは謙遜になることです。主イエスは最も小さな者となれ、最も低い者となれと言われているのです。この低い者が高い者なのです。これが神の国の秩序なのです。主イエス・キリストご自身を見て下さるとわかります。主イエス・キリストは神の独り子です。そのお方が徹底的にへりくだり、人の子となられ、しもべの姿を取られた。この低くなられたイエス・キリストが教会の頭とされたのです。