2014年1月5日礼拝説教 「この町には、わたしの民が大勢いる」

             2014年1月5日

聖書=使徒言行録18章1-11節

この町には、わたしの民が大勢いる

 

 「この町には、わたしの民が大勢いる」。今年2014年の浜松教会の主題聖句です。伝道者を活かすみ言葉です。ある牧師が語ります。田舎の小さな教会で数十年奉仕した。石地のような田舎町の伝道に疲れ果て、牧師を止めるか、他所に移ろうかと考えた時、このみ言葉が示され引き戻された、と。多くの伝道者がこのみ言葉で遣わされた地に引き戻らされ、伝道者として立ち直ることが許された。「伝道者を支える聖句」です。

 パウロの第2次伝道旅行により福音がアジアからヨーロッパ世界に伝えられた。パウロは今、コリントに来ている。アテネ伝道では見るべき成果はなく、コリント伝道に望みをかけていた。そのコリントで手痛い打撃を受けた。彼の伝道方法はユダヤ人会堂を手がかりとし会堂に集まるユダヤ人と異邦人に福音を伝えるものでした。当時、ユダヤ人は世界中に散らばり、主要都市に会堂があった。この会堂に集まる人に安息日毎に福音を伝えた。天幕作りの仕事をしながらの伝道であったが、シラスとテモテがマケドニア州から贈り物を持ってきてからは力を得て、「御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした」。

 このパウロの力強い伝道と説得が裏目に出て、会堂の主流であるユダヤ人が反発した。「彼らが反抗し、口汚くののしった」。私は分かる気がします。ユダヤ会堂で自分たちの伝統的ユダヤ教の信仰理解が否定されたのです。当然、彼らは激しく反抗し、ののしった。結果として、パウロたちは会堂から追放された。パウロの伝えることはユダヤ教ではないと判断されたのです。ここからユダヤ会堂を離れての異邦人伝道が本格化した。説教する場所を、パウロを受け入れてくれた「ティティオ・ユストという人の家に移」した。ところが「彼の家は会堂の隣にあった」。そのためパウロには恐れと不安があった。会堂を去って、隣の小さな民家でみ言葉を語った。伝道は進展したのです。会堂長クリスポも信じ、信じる人も多く与えられた。しかし、パウロには不安と恐れがつきまとっていた。いつ襲われるか分からない。このような弱さを持つ人間を、神は用いるのです。

 主は、み言葉をもって励まされます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」。「恐れるな」は旧約預言者に繰り返し語られた言葉です。人を恐れてはならない。「語り続けよ。黙っているな」。福音を語ることの明確な命令です。語り続けること、継続することです。いつであっても、時が良くても悪くても福音を語り続けること。教会と伝道者は福音を語り続けることが命じられています。教会は沈黙することなく福音を語ることによって教会となるのです。

 主は続けて、「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と言われます。「この町」、私たちの住んでいる町、教会の伝道の範囲、エリアです。「この町」には神の民が大勢いるのだ。まだ現実に見てはいないけれど、神の民が大勢いる。伝道の稔りを保証する慰めに満ちた励ましの言葉です。ここに私たちは神の予定を読み取る。予定とは単なる教理ではない。神の恵み深い決意であり、神の慈愛の計画を表す言葉です。「わたしの民」とは神の選民を表す言葉です。旧約時代はイスラエルの民を示す言葉です。しかし、ここで言われる「わたしの民」は「キリストに属する者」です。まだ隠されていて私たちには見えないが、この町の中にキリストに属する者が数多くいるということです。神が、主権をもってキリストに属する者を選び定めておられます。このことを堅く信ずることが予定の信仰です。誰が選ばれているか、いないかと語ることではない。神がキリストに属する者をしっかり握っておられることを信ずることです。

 このみ言葉は希望のみ言葉です。けれど、薄っぺらな希望ではない。今日、伝道の困難とむずかしさが、どこでも語られます。日本の伝道は教派を越えて壁に突き当たったような状態です。なぜでしょう。聖書ははっきり伝道の不可能性を語っています。第1に人間は霊的な死人だからです。「罪と罪過の中で死んでいる」とパウロは語ります。死人に向かってどんなに呼び掛けても答えは返ってきません。パウロは、次にサタンの力を語ります。サタンは人を堕落したままの状態にとどめようと熱心に働いています。霊的な死人ということとサタンの熱心な働きとのゆえに、伝道は人間的には本来、不可能な業なのです。

 しかし、人間にできないことを、神がして下さるのです。パウロは「あなたがたはキリストを信じる信仰を賜った」と語ります。「恵みにより、信仰によって救われる」と言います。神はみ言葉の宣べ伝えを通して、死んだ状態の罪人の心に働き掛けて信仰に導いて下さるのです。神は、み言葉の宣べ伝えを用いて、この町にいる神の民を呼び出されるのです。「神の召し」です。神は、福音宣教の言葉を用いて選び残しているキリストに属する者を信仰に招かれるのです。伝道は死人の復活なのです。予定の信仰は、福音の宣教によって現実化するのです。主が、教会と伝道者の福音の宣べ伝え、福音の言葉を用いて、「起きなさい。わたしに従いなさい」と呼びかけてくださいます。神の召しに、福音の宣教、伝道の奉仕が用いられるのです。伝道は、人間的には困難な課題、絶望的、不可能と言える課題です。しかし、神は成功させて下さいます。可能としてくださるのです。

 伝道の希望は、神が神の民を定めておられるところにあります。そして現実に私たち伝道活動を用いて、み言葉と共に働く聖霊の働きによって死人を甦らせるに等しいことを、神ご自身がして下さるのです。ですから、「語り続けよ」というみ言葉は、決して空しくはならないのです。