12月29日礼拝説教 「不信仰で無力な弟子」

            2013年12月29日

聖書=ルカ福音書9章37-53a節

不信仰で無力な弟子

 

 使徒の主だった3人を連れて、主イエスは山に登られた。山の下には残り9人の使徒と他の弟子が残された。残された弟子の信仰が問われた事件です。この失敗物語は共観福音書に共通して記されています。普通はこういう情けない失敗物語は表に出さないで隠してしまう。最近の官庁だったら外に出さず内部で済ませてしまう恥ずかしい姿です。しかし、共観福音書の執筆者たちは隠さないで記す。自分たちはこんなに無力だった、不信仰だったと明らかにしている。いつの時代であれ受け止めるべき大事が、ここにあるからです。本当に祈っているか、信仰的な居眠りしていないか、生きた信仰を持っているか、と問われている出来事だからです。

 山に登っていた主イエス一行が山を下りて来た。すると「大勢の群衆が」出迎えた。その時、「一人の男が群衆の中から大声で言った」。父親の叫びでした。この男の一人息子が悪霊に取り付かれて苦しんでいた。引きつけを起こしてのたうち回るように苦しんだ。父親として子供の苦しむ姿を、自分のこととして悩み苦しんだ。多くの医者にも連れていった。ところがいやしてもらうことは出来なかった。そこで万策尽きて主イエスのところにやってきた。多くの病人を治しているという噂を聞いて、それに縋ってきた。ところが主イエスは3人の弟子を連れて山に登って留守だった。

 そこで父親は残された弟子たちに頼んだ。「先生がた、どうかわたしの子を診てやってください」と。ところが弟子たちは無力でした。何にも出来なかった。残されていた弟子が2級品ではない。彼らも「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を」授かった立派な使徒です。弟子たちは手を伸ばしていやされるように祈った。悪霊に対して「出て行け」と言葉を出した。何人もの弟子が試みても何の変化もなかった。父親の必死の願いに応えることが出来なかった。そこで父親が「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と叫びだした。弟子たちは群衆の前で面目丸つぶれです。使徒は「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授け」られ、これまでにも、主イエスに派遣されて、福音を伝え、病気をいやしてきた。実績はあるのです。

 その力が失われ空しく手をこまぬいていた。父親の弟子に対する信頼は失望に変わり、群衆からは嘲られる。主イエスから授けられた力と権能は一時的なものだったのか。この惨めな弟子の姿の中に、現代の教会の姿を見る思いがする。今の時代、人の心は病み荒れ果てています。多くの人の心はいやされることを求めている。今日は本物の宗教が求められている時代だと、私は考えています。しかし、宗教が求められながらも、宗教が人々の願いに応えていない時代です。仏教も力を失い、新興宗教にも失望しているのが現在の日本社会です。では、キリスト教はどうなのか。私たちは今、問われている。キリスト教会とキリスト者は、何をしてくれるのかと問われている。ところが教会では何も出来ないとあきらめてしまっている。教会は高齢化し、牧師の数も少なくなり、伝道の活力を失っている。子供のいやしを頼まれ何の助けも出来ずに右往左往している弟子たちの姿は、時代の人々の願いに応えられずにいる今日の惨めな教会の姿です。

 主イエスは言われます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と。この主イエスのお言葉は弟子たちに向けて語られている。一言で言えば、信仰の問題だと言われた。不信仰だと言うことです。12人弟子には悪霊を追い出し、病気をいやす力を与えられていた。しかし、その力は自動的にいつでも自由に使える便利なものではない。一度合格すれば、生涯身分保障される便利なものではない。キリストから与えられる力は委託される力です。全身全霊でキリストに信頼して明け渡し、キリストに結びついている信仰なしには無力なのです。これは12人の使徒たちだけのことではありません。今日のキリスト教会の牧師も同じです。神学校を卒業し試験を受けて教師資格を取ったら、生涯立派な説教が出来るというものではない。説教をし続けていくためには学び続けていかねばならない。真剣な信仰の歩みと伝道の実践がなければ説教も奉仕もできなくなる。これは牧師だけのことではない。私は何十年前に洗礼を受けたと言っても、それがそのまま信徒としての力強い証しとはならない。信徒としての力強い証しは、キリストに信頼して生きる現実の歩みの中でなされるのです。権威や形式や規則をいじり回しても何の力にもならない。今日のキリストの弟子たちも、主イエスから「なんと信仰のない」ことだと言われるのです。

 主イエスは弟子たちを叱責して「お前たちはなんと情けない」と言って切り捨ててしまったか。主イエスは弟子たちの失敗をカバーし尻ぬぐいをしてくださいます。弟子の失敗を主ご自身が担い直して下さいます。主イエスは御言葉をもって悪霊を追放し、子供をいやしてくださった。弟子たちは不信仰によって失敗をします。繰り返し失敗すると言っていい。しかし、主イエスはその失敗を回復して下さいます。主イエスは言われました。「あなたの子供をここに連れて来なさい」。ここに回復の鍵があります。私たちは今も無力です。力がありません。しかし、主イエスを信頼して、主イエスのもとに問題を持っていくことです。キリストのいますところに力と解決があるのです。弟子たちは、目の前の病をいやすことに気を取られてキリストに信頼して祈ることを忘れていた。自分の力に過信して、自分の力で問題を解決しようとしたのでしょう。それでは力がありません。聖霊において臨在される主に信頼して、主にすべての問題を祈る。真剣に祈る。祈りこそ、私たちの力です。私たちの力の源はキリストにあります。