12月15日礼拝説教 「戸の外に立つキリスト」

           2013年12月15日

聖書=ヨハネ黙示録3章14-22節

戸の外に立つキリスト

 

 ベツレヘムにキリストが来られたこと、将来、主が再臨すること、そして、信徒の心の中に主イエスが入ってこられること、この3つの「来る」ことを覚えて、心備えしたのがアドベントです。

 ラオディキアの教会に宛てられた手紙です。「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」。この手紙の発信者はキリストです。キリストご自身が真実をもってお語りになる。教会のことを思い、教会の中を真実にご覧になり、心配して本当のことを語り出そうとしているのです。ラオディキアは当時きわめて富んでいた町です。金融の中心地、毛織物業が盛んで、有名な医学の学校があり、ラオディキア産の目薬は有名でした。豊かに繁栄していた街の雰囲気が教会の中にも深く浸透していた。ラオディキア教会への手紙の特色は厳しい叱責です。何1つ誉める言葉はない。冒頭から叱責の言葉です。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。…なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。

 有名なお言葉でが、言葉の意味を深く考えているかどうか疑問です。多くの誠実なクリスチャンは「私は不熱心で申し訳ない」と小さくなる。反対にある牧師さんは「もっと熱心に奉仕しなければいけない」と叱咤激励する。この主イエスの言葉は単純な意味での「奉仕の不熱心へのお叱り」ではない。もっと根本的なことです。「口から吐き出す」とは、関係を断つということです。厳しく関係を絶つ原因は「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」ことです。「冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とは、飲み物を念頭に置いている。キリストがこの地上で伝道に走り回っておられた頃の記憶に基づく。普通、「冷たい」ことはマイナス概念です。ところが、ここでは決して悪くない。喉が渇いている時に癒してくれるのは適度に暖かいお茶です。走り回って汗をかいたような時には冷たい水の一杯は渇きを癒してくれます。そんな時に生ぬるい水は一番がっかりさせられる。本当に吐き出してしまいます。思わず吐き出す。

 では、主イエスが思わず吐き出してしまうような生ぬるい水のような信仰者とは、どんな存在なのか。「『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っている」者たちのことです。単なる奉仕に不熱心というのでは決してない。信仰の在り方の基本が問われているのです。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言うのがこの世の人の言葉であるなら理解できます。しかし、その考え方が教会の中の人たち、指導者から始まって教会員たち全体に行き渡って教会の気風になっているのです。街の気風が教会の中にも行き渡っていた。

 教会員たちが神に信頼しないで、この世の富に信頼して生きていた。教会ですから礼拝という儀式はしていた。形式的な祈りの言葉も語られていた。しかし、信仰が見あたらない。熱心、不熱心という問題ではない。もっと以前の問題です。神への信頼という信仰の基本が見あたらなかった。彼らもキリストを神としていたでしょう。しかし、実際の生活の中で神を必要としていない。彼らはお金の神を信頼していた。傲慢な鼻持ちならない姿だった。ですから、キリストは「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と言われた。信仰は自分の貧しさ、惨めさを知るところから始まります。どんなに富んでいる人であっても、神を知らなければ貧しいのです。どんなに豊かであっても、キリストを知らなければ悲惨の中にいるのです。信仰は神の前における自分の罪深さ、貧しさと悲惨を知るところから始まるのです。

 しかし、キリストはこの教会を見捨てていません。「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と言われます。愛する故に叱る。悔い改めを求める。自分たちは富んでいるとうぬぼれているが、実は貧しいのです。「火で精錬された金をわたしから買うがよい」と言う。地上の富ではなく天にある富を求めなければならない。彼らはきらびやかな衣服を身にまとっていたが、罪人の裸の恥をさらしているのです。この悲惨な状況から逃れるために、「白い衣」すなわちイエス・キリストの贖いの恵みを受け入れることです。彼らは教会員でありながらキリストの赦しの恵みを得ていない。「見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」。世界中に売るほどの目薬を持っていても信仰の目は閉ざされたままなのです。

 このような教会と教会員たちに主イエスは言われます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。ラオディキアの教会員たちに、悔い改めの機会は開かれているのです。ラオディキアの教会だけでなく、この御言葉は今日の私たちに対して語られているのです。キリストは、今、教会の外に立っておられます。私たちの心の外に立っておられます。これは本来おかしなところです。教会は本来、キリストの支配するところ、キリスト者とはキリストが内住している者です。ところがキリストが外に立っておられるのです。教会になっていない。クリスチャンになっていない。しかし、主は、一人ひとりの心の中に入り、恵みが支配し、赦しの恵みにあずかるようにと願って戸口を叩き続けておられます。主は、一人ひとりの心の扉をノックしていて下さいます。キリストをお迎えすることがクリスマスの備えです。キリストを迎えて私たちの主となっていただき、クリスマスの時、主の食卓にあずからねばならない。教会はここに成立するのです。