12月1日礼拝説教 「十字架を背負って従う」

             2013年12月1日

聖書=ルカ福音書9章21-27節

十字架を背負って従う

 

 主イエスの受難の予告と弟子の生き方が教えられています。主イエスは「イエスをキリスト」と告白した弟子たちに最も大切なことを教えられました。弟子教育の頂点とも言える事柄です。第1はキリストは十字架の受難を経て復活する救い主であることです。第2はキリストの弟子はキリストに倣って十字架を負わなければならないことです。この2つは別々ではなく1つの事柄です。クリスマスは主イエスの誕生を喜び祝う時です。しかし、この幼子誕生は単なる赤ちゃん誕生の祝いではありません。この幼子の上には、その誕生の時から十字架の影が差しています。救い主として十字架を担うお方の到来としての祝いです。

 弟子たちに対して、主イエスがメシア・キリストであることを「だれにも話さないように命じて」おられます。なぜでしょう。それは主イエスの歩むキリストとしての在り方が当時の社会一般の人々が求めていたメシアではなかったからです。主イエスは決して人々の人気を得て、人々の気に入れられて、人々の期待に添うメシアであろうとはなさらなかった。同じ言葉でも内容が違っていたのです。当時、ユダヤ民衆の中にメシア待望がありました。ローマ帝国の支配下にあるユダヤの国がモーセのような、ダビデのような英雄が現れて力によってユダヤの国を解放してくれるという強烈な願望です。人々は主イエスにそのメシアの希望を託していた。弟子の中にさえも主イエスにそのようなメシアを期待する気持ちがあった。

 主イエスはまったく異なる救い主の道をここで示されました。主イエスが示されたキリストとしての歩みは、当時の人たちにとり思いもかけない道筋でした。主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われました。時の権力者の長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されてしまう惨めな道です。苦難を受ける受難のメシアの道でした。この受難のメシアこそ、旧約聖書が預言していたまことのキリスト、救い主の道なのです。主イエスは受難の予告の中で「必ず」と言われます。大切な言葉です。「デイ」という言葉です。「必ず…ねばならない」「必ず、そうなる」という言葉です。これから主イエスが歩む受難の道は、たまたま偶然にそのようになったというのではない。この道は神ご自身がご計画しておられる道なのだ。神から派遣されたメシア・キリストとして「必ずこうなるのだ」という救い主の道、キリストの道を語られたのです。

 イザヤ書53章で語られているように、主イエスは人々に軽蔑され、見捨てられ、差し貫かれて生涯を終えたのです。これがまことの救い主、十字架のキリストです。「必ず多くの苦しみを受け」と言う「必ず」は、神の決意、神の計画を表す言葉です。神の救いのご計画は、人々に軽蔑され、見捨てられ、殺される惨めなキリストによってなされるのです。これが神のご意志です。これが神が遣わされたキリストの道なのです。

 主イエスはご自分の歩むべき道を示された後、弟子たち「皆に言われた」。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。十字架を担うのはキリストだけでない。キリストの弟子たちも十字架を背負うのだと、言われたのです。特別な信仰の偉人や指導者だけのことではありません。主イエスを信じるすべての者が十字架を負わねばならないのです。主イエスの時代、十字架の処刑を受ける者は刑場までの道のり、自分が付けられる十字架を背負っていかなければなりませんでした。それと同じようにキリストを信じる者は、キリストに倣って、それぞれ自分の十字架を背負って生きるのです。

 これがキリストの弟子の基本的な生き方です。弟子として従うことの第1は「自分を捨てる」ことです。自分を捨てるとは自殺したり、世捨て人になることではありません。今までの自分中心の生き方を捨てること、方向転換をすることです。具体的に言うと価値観、人生観の転換です。キリストに出会うまでの自分中心のこの世的な価値観を捨てることです。価値観とは、何を第1にするか、何を大切なものと考えるかということです。

 次に、自分の十字架を担ってキリストに従うことです。「日々、自分の十字架を背負って」と言われます。「日々」、毎日です。毎日の生活の中でなされることです。「自分の十字架」とは、キリストを信じた故に負わねばならない信仰者としての苦しみです。ある人にとっては家族の中での無理解でしょう。ある人にとっては会社での不利益でしょう。ある人にとっては偶像礼拝拒否の戦いでしょう。人により異なりますが、それが主イエスによって担わされる十字架です。私たちが背負う十字架こそキリスト共に歩むくびきなのです。「わたしのくびきを担って、わたしに従いなさい」と主は言われました。キリストと1つに結ばれるくびきです。それを担って主イエスに従うのです。キリスト者はキリストの歩まれた道を、くびきを共にして歩むのです。それが弟子としての道なのです。

 最後に、主イエスは「自分の富を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために富を失う者は、それを救うのである」と言われます。神中心に生きる人は、すべてを失うように思いますが決してそうではない。得るのです。信仰者は失って得るのです。キリストに従う道は必ず勝利を得る道です。「必ず…ねばならない」は、主イエスの十字架への道だけでなく、三日目の復活にまで係っているのです。復活せねばならないのです。キリスト者は、キリストと共に復活の勝利につながる道を歩むのです。キリストの弟子である者は、この信仰の真理に目覚めなければならないのです。