11月17日礼拝説教 「わたしを何者だと言うのか」

            2013年11月17日

聖書=ルカ福音書9章18-20節

わたしを何者だと言うのか

 

 主イエスについてのペトロの信仰告白が記されています。主イエスは今、公生涯の分岐点に立っておられます。伝道と弟子教育の時期を終えて、これからご自分の使命である十字架への道を歩まれることになります。

 主イエスは弟子たちを集め、一緒に生活する中で御言葉と御業を伝えてこられました。御言葉の宣べ伝えといやしなどの御業の中で、御自身をお示しくださいました。主イエスはただの人間ではない。人間には出来ない罪人の罪を赦し、病む者をいやし、自然界さえも治めることのできる方でした。5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を養われました。弟子たちは主と共に生活し、主のお言葉を聞き、御わざを見て来ました。その中で、1つの問いがくっきりと浮かび上がってきます。それは「イエスとは誰か」、「イエスとは何者か」という問いです。自分たちが「先生」あるいは「主」と呼んできたこのお方はどういう方なのか。実はこのことは、主イエスの伝道の歩みの中で何度も繰り返し暗黙の内に問いかけられていたことです。しかし今、ここではっきり示されようとしているのです。

 場所は、マタイ福音書では「フィリポ・カイザリア地方」となっています。ルカ福音書では場所については記しません。ルカ福音書が記すのは祈る主イエスの姿です。ルカ福音書には祈る主イエスのお姿がしばしば記されます。主イエスは御生涯の中で大切なことをされる時、一人真剣に祈られました。12弟子を「使徒」として選び出された時も祈りの後でした。この弟子たちの卒業試験と言える時にも、主は祈っておられます。私たちもキリストの弟子として大事なことを行う前には、祈ることを大切にしてまいりたいと願っております。主イエスは「共にいた弟子たち」のために祈っておられた。主イエスの本当のお姿、本当の御性質、本当の使命、イエスというお方をまるごと正しく理解してほしかった。求道中の方にいつも申し上げていることです。「キリストを判らせて下さい」と祈りながら福音書を読んでくださいと。人間的な思索力、理解力でイエスを正しく受け止めることは出来ません。イエスについての本当の理解は、人の心の中に働く聖霊のお働きなくしてはあり得ないのです。ペトロの答えは主イエスの祈りによって導き出され、引き出されたものと言っていいでしょう。

 祈られた後に、主イエスは弟子たちに尋ねます。主イエスは先ず、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは口々に答えます。「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「昔の預言者が生き返ったのだ」と。洗礼者ヨハネ、エリヤ、他の預言者、いずれも偉大な人たちです。偉大な人物の再来と評価しても人間にすぎません。主イエスの問いかけが5千人養いの後にされていることは大きな意味があります。主イエスは多くの人たちの目の前でパン5つと魚2匹で彼らを十分に満腹させた。そこで多くの人の中にも、いったいこのお方は誰だろうと言う問いが広まっていたのです。ところが群衆はイエスの中に洗礼者ヨハネ、エリヤや旧約の預言者たちを思い起こしたに過ぎなかったということです。主イエスのすばらしい奇跡を目の当たりに見ても、信仰をもって見るのでなければ見るべきものが見えないのだということです。

 主イエスは改めて弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられました。これこそ、最初から弟子たちに尋ねたいことでした。「あなたがたは」に強調点があります。「あなたがた」弟子たちは主イエスに見いだされて数年間、生活を共にし、説教、奇跡、御業などを目の当たりに見て、聴いてきた。その主イエスの弟子としての「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられた。しばらく緊迫した沈黙が支配したでしょう。その沈黙を破るようにペトロが答えた。これはペトロ個人と言うよりも弟子たちを代表する答です。使徒たちの代表としてペトロは答えます。「神からのメシアです」と。

 新共同訳の「メシア」は困った訳し方です。「神のキリスト」です。今日、イエス・メシアとは言いません。イエス・キリストです。口語訳、新改訳のように「神のキリスト」と訳すべきです。しかし、新共同訳の「神からの」は解釈を含んだ良い訳し方です。「神の」という属格を「神からの」と訳した。メシア・キリストとは「油注がれて任職された者」ということです。神ご自身が、私たちの救い主として油注いで任職したお方を派遣してくださった。それがイエスだということです。ヨハネ福音書1章29節「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言われるお方です。ペトロの答えは、あなたは神から遣わされた油注がれて任職されたキリストである、救い主である、という信仰告白の言葉です。

 弟子たちの目の前にいるのは、当時の人々が「ナザレのイエス」と呼んでいる一人の人間です。マリアから生まれ、大工の子と考えられている一人の男です。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」人です。その生身の人間を指して今、ペトロは「あなたはキリスト」と語ったのです。神が罪人の救い主として油注がれた者、任職された者という意味です。神が救い主として任命し遣わしてくださったお方です。私たちは今日、「イエス・キリスト」と何気なく語ります。実は「イエス・キリスト」と呼ぶこと自体が簡潔な信仰の告白なのです。歴史の中で人となられたイエスという人物を、キリスト・救い主と呼んでいる。イエスはキリスト、救い主なのだと表明しているのです。キリスト教信仰とは福音書を読み、そこに記されているイエスというお方を知り、そのお方をキリスト・救い主と信じる信仰です。このお方をしっかり見つめて下さい。