11月10日礼拝説教 「パン5つと魚2匹」

            2013年11月10日

聖書=ルカ福音書9章10-17節

パン5つと魚2匹

 

 4つの福音書に全部記されている奇跡物語は、この5千人給食の出来事だけです。4人の福音書記者が削除することが出来ないとした。弟子たちや後の教会が伝道し教会を建てていくための大事が教えられているからです。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」。弟子たちの伝道活動は大きな波紋を広げ、弟子たちの気持ちは高揚していた。主イエスは興奮している弟子たちを集めて淋しいところに退かれます。

 ところが思うようにはいきません。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」。主イエスが来たことを知って、ベトサイダの町の人たちは主イエスの後を追ってきた。主イエスはいつものように福音を語り、人々をいやされました。集まってきた群衆は男だけで5千人ほどいた。女性や子供を加えると1万人近くなるかもしれません。

 「日が傾きかけた」ので、12弟子は主イエスに言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。……」。この弟子たちの言葉を聞いた主イエスは、弟子たちに言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。口語訳では「あなたがたの手で」と訳した。ギリシャ語本文には「手」という語はありませんが意味を汲んだ訳し方です。「あなたがたが与えなさい」、「あなたがたがやれ」と言われた。主イエスがベトサイダに休養のために退かれてなお、5千人を超える人に説教された目的はここにあった。

 主イエスによって弟子たちは「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を授けられて伝道に派遣された。最初は不安だった。ところが伝道し始めたら、主イエスと同じ事が出来る。悪霊を追い出すこともできた。病人に手を置いたらいやされた。しだいに自分たちにも能力があるのだとうぬぼれるようになったのではないか。自分たちで何でも出来る。自分たちには力があると。そのような高慢のままであったら本当の伝道は出来ない。主イエスは彼らの熱を冷ますためにベトサイダに退かれたのです。

 そこで主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と突き放された。この御言葉によって弟子たちは無力さを悟らされたのです。得意になっていた弟子たちは、ハッと自分たちの無力さに気付いた。「あなたがたがやれ」と言われて、弟子たちがかき集めてきたものはパン5つと魚2匹に過ぎなかった。「これだけしかありません」。「買いに行かない限り」と言っても、この小さな町にそんな店はありません。お金もありません。何にも出来ません。しかも、このパン5つと魚2匹もヨハネ福音書によると、ある少年が気前よく差し出してくれたものでした。何でも出来ると思っていた弟子たちも、自分たちだけでは何もできなかったのです。自分たちだけでは何も出来ないということを悟ることが大切なのです。

 自分たちでは何も出来ないことを、弟子たちが認めます。すると、主イエスは弟子たちに「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われました。弟子たちは命じられたとおりにします。すると主イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り」ます。これが5千人養いの出来事で最も大切なところです。「五つのパンと二匹の魚」が移されたのです。移動した。「取り」と訳された言葉は「受け取り」です。主が受け取られたのです。5つのパンと2匹の魚が弟子たちの手の中にある限り、5つは5つ、2つは2つでした。それだけでした。しかし、主イエスのみ手に委ねられた時に、大きく変わったのです。主イエスは捧げられたものを受け取られて、天を仰いで、神を賛美し祈られます。人間的な道は閉ざされていても、天の扉は開いているのです。天を仰ぐ道であります。主イエスご自身、天を仰いで祈られたのです。天の扉が開かれる道なのです。

 ある信仰書に指導的な牧師が献金の祈りについて、「私たちの捧げた貧しいものを、主よ何倍にも増してお用いください」というような祈りはおかしいと記された。その先生は「100円しか捧げなかったら、それは100円だけだ。神さまはマジックをするわけではない」と記しておられます。私は首をかしげました。実は捧げ物について、私はこのお祈りの通りではないかと理解しているからです。神はその祈りのように捧げたものを何倍にも増し加えて用いてくださるお方なのです。確かに100円は100円で、私たちの目の前で千円になるわけではありません。しかし、神さまが用いてくださると、不思議なことに100円で留まらないのです。その捧げられたものははるかに豊かにされるのです。

 献金だけのことではありません。私たちが時間を捧げ、賜物を捧げてまいります。それ自体はまことにささやかなものに過ぎません。しかし、神はそのささやかな私たちの賜物と奉仕の働きを豊かに用いてくださいます。教会の伝道も奉仕のわざもそうではないでしょうか。その意味では「私たちの捧げるものを、何倍にも増してお用いください」と祈ることは決して間違っていませんし、その祈りが聞かれるのです。主のみ手に委ねられるならば、5つのパン2匹の魚で5千人以上の人たちが養われるのです。私たちの手の中にある僅かのものでも、主のみ手に委ね、主が受け取られると大きく変わるのです。1+1=2ではない。無限大になると言っていい。主イエスのみ手に委ねられる時に、少なすぎる、小さすぎるということはありません。主イエスは貧しい器、何も出来なかった12人を用いて世界中に福音を宣べ伝えさせ、全世界に教会をお建てになるお方です。大事なことは、まことに貧しいものであっても、主のみ手に委ねることです。