11月3日礼拝説教 「福音宣教への派遣」

                2013年11月3日

聖書=ルカ福音書9章1-9節

福音宣教への派遣

 

 主イエスは弟子たちを各地に派遣します。伝道の訓練のためです。主イエスが天に挙げられた後に弟子たちが独り立ちして伝道するための訓練でした。今日、日本の教会は伝道において大きな壁に突き当たっています。どの教派もおしなべてで、改革派教会も例外ではありません。どこに問題があるのか。この事態は、むしろ伝道について根本から再検討するよい機会なのではないかと、私は受け止めています。

 「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」。「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」と言い換えています。先ず、「権能」という言葉です。元の言葉は「力と権威」です。主イエスはご自分が持っておられる「力と権威」を弟子たちに委ねられました。何を主は委ねられたのか。1つは「神の国を宣べ伝える」ことです。言葉による福音宣教です。主イエスが「福音を告げ知らせ」、「教えておられた」ということに対応するものです。2つは「病気をいやすこと」です。主イエスは悪霊に取りつかれた者をいやし、多くの病人をいやされました。「病気をいやす力」とは、これに対応するものです。

 近年の正統的キリスト教は、伝道を御言葉の伝道、言葉における福音宣教を中心に考えてきた。それに対してカリスマ派・ペンテコステ系統では「病気をいやす力と権能」に注目し、「いやし」を伝道の中心に据えるようになった。その結果、体と心を病む多くの人がカリスマ派に流れていくこととなった。私は正統的キリスト教の伝道は「病気をいやす力と権威」を回復しなければならないと考えている。キリスト教は本来、言葉による福音伝達と共に「病気をいやす力と権能」を持っていた。この時の12人の伝道も、初代教会の伝道も、この二つが相伴っていたのです。

 「病気をいやす力と権威」は、言い換えれば「仕える働き」です。伝道は、言葉による福音の伝達と共に、福音を伝える相手の人々に対して仕える働きが伴って伝道になるのです。日本にキリスト教を伝えた幕末・明治期のアメリカの改革派・長老派教会は御言葉の宣教師と共にヘボンという有能な医療宣教師を一緒に派遣しています。病み困窮する人たちに仕えるための奉仕が最初の日本宣教の視野の中にはあった。最近、東日本大震災を契機として「ディアコニア」が叫ばれてきました。地域の人たちに仕える働きを回復していかねばならない。それが今日の宣教の課題なのです。

 次に注目するのは、「遣わす」という言葉です。「遣わす」とは、アポストロス・使徒と同根の言葉です。12人の弟子は派遣された者です。伝道はキリストに派遣されての奉仕のわざです。弟子たちの自発的な意志、ボランティアから出た働きではありません。今日、いろいろなところでボランティア活動が盛んです。自由な自発的な活動は大きな意味があります。しかし、伝道は、自分がしたいから、自分で思い立ってというものでは決してありません。主イエス御自身の「行きなさい」という派遣命令に基づくのです。主イエスは弟子を派遣される前に、弟子たちを集めました。主ご自身が伝道しながら、「あなたはわたしに従ってきなさい」と弟子を集めました。そして伝道旅行をしながら、その中で弟子たちを教育し訓練なさいました。主イエスは何の訓練もしないで弟子を派遣されることはありません。生活を共にして御言葉を教え、御言葉の力を実際に体験させられました。そして今、派遣されるのです。弟子たちに自由がなかったのではない。どこの町に行くのか、どのように語るのか、みんな自由です。しかし、伝道は派遣されるお方の働きなのです。礼拝の派遣と祝福は、「主があなた方と共にいつもおられるように」という派遣するための祈りなのです。

 主イエスは12人を派遣するに当たって伝道者の心構えを簡潔に示されました。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。これらの注意事項は、今日そのまま伝道者が受け継いでいくことは出来ません。社会的な事情がたいへん変わっているからです。これは主イエスのガリラヤ伝道の実際から来ています。ガリラヤ湖畔で主イエスが伝道して回った時、困ることなく伝道が出来た。多くの人が集まって来て、イエスを自分の家に迎え、説教を聞き、病人をいやししていただいた。それを前提にして、主イエスは教えておられるのです。主イエスの代わりに弟子たちが近隣の町々を訪ねるならば、主イエスを迎えるのと同様で何も困ることはないということです。

 それにしても、杖もパンやお金も下着も旅における必需品です。それら必需品を持って行くなとは、いくら人々の親切心が期待できても厳しい言葉です。何故、主イエスはこのように命じられたのでしょう。それはキリストの弟子たる者は思い煩いを捨てて、神の支配に身を委ねよということです。福音を伝えることは、神が今、ここに生きて支配しておられることを告げることです。その神の支配を告げる者は、神の支配に身を委ねて生きることは当たり前のことではないかと言われたのです。神の支配を信じて生きることは「思い煩わない」のです。神が万事を備えてくださる「アドナイ・エレ」を確信して生きることが求められているのです。

 この御言葉は伝道者の生活の在り方を教える言葉です。伝道者は神が備えてくださるもので生きるのです。神が召しておられる。その神に信頼して生きるのです。私は伝道者として召されて40数年の生活を振り返って、神は豊かに備えていてくださったと深く感謝しています。ガリラヤ湖畔で多くの人が主イエスを迎えてくださったように、教会員の皆さまが暖かく迎えてくださり、思い煩うことなく伝道に専念させていただきました。