10月27日礼拝説教 「恵みの神を知る…この最後の者にも」

             2013年10月27日

聖書=マタイ福音書20章1-16節

恵みの神を知る…この最後の者にも

 

 このたとえ話は神の恵みへの招きの物語です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」。農業の収穫はある一定の時期に緊急に多くの人手を必要とします。町の門の中が広場になっていて、そこで労働者を雇うことも行われていた。雇われたい人は広場に出かけ雇ってくれる人を待ちます。ぶどう園の主人は神を表しています。深い感銘を与えるのは朝早くから行動を始めておられる神の姿です。神は人を恵みの中に招いて下さるために早くから働いて、朝早くからの人、9時頃の人、12時頃の人、3時頃の人と労働者を雇いました。1日1デナリオンの労働契約を結んでいたのは朝早くからの組だけだったようです。その他の人は「ふさわしい賃金を払うから」というだけでした。

 最後の5時頃の人です。一日の仕事にアブレてしまった人です。何か事情があったのか。ぶどう園の主人との会話を見るとニヒルになっている。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と他人事のように言う。人生をあきらめてしまっている。ふてくされている。5時頃とは日没に近い。当時の労働は日の出から日没までです。あと幾らも残されていない。けれど主人は時間ぎりぎりの人もぶどう園に招くのです。

 日没になった。一日の働きが終わると、主人は労働者に賃金を支払います。一番後から来た人から払い始めました。5時頃からの人に1デナリオンが支払われた。それを見ていた9時頃、12時頃、3時頃の人たちは「我々にはもうすこし多いかな」と期待があった。ところが支払われたのは同じ1デナリオン。不満でしたが契約しているわけではないから黙っています。ところが朝早くから来ていた人たちの番になって同じ1デナリオンが支払われた。すると大きな不平の声が聞こえてきた。「自分たちは朝早くからきて丸一日暑い中を辛抱して働いた。5時頃来たこの連中はたった1時間も働いたかどうかだ。それと同じ扱いというのは納得できない」と。

 確かに不合理です。朝早くから働いた人と日没前一時間と働かなかった人とを同じに取り扱うのは不平等です。しかし、主人は2つの点を挙げて答えます。1つは最初からの労働者に対する賃金は契約どおりで不正ではない、2つは後からきた者にどれだけの賃金を払うかは主人の権限によって決めることだと。遅れてきた人にいくら払うかは主人の気持ち、好意です。こういうことが聖書に記されているからといって、クリスチャンの経営者は皆こういう風にするのかというと決してそうではありません。こんなことをしていては倒産間違いなしです。これは経営の問題ではない。

 このぶどう園の労働者は、神の元に招かれている者の姿なのです。この1デナリオンは神の国に生きるための入場料と言っていい。恵みの1デナリオンと言って良い。聖書は不思議なくらいに神の国に入る救いについて人間の能力とか働きを問題にしない。神の国に入るのはイエス・キリストの十字架の血だけが大事なのです。キリストの十字架の血という1デナリオンによってだけ神の国の救いが約束される。早くからの人は、早くから恵みの1デナリオンが約束されているのだと言っていい。

 問題は夕方5時頃にまだ広場に立っている人です。人生の半ば過ぎ、人生の夕暮れに至るまで神を知らないで過ごしてきた人の姿です。生まれて一度も福音を聞いたこともなかったのか、それとも福音を何度か聞きながらも聞き流して信じることを拒んできた人たちです。人生の黄昏時に身に不安を覚えた。人生の終わりになり、何の奉仕もできなくなってからでも、神が救いの中に招いて下さることは大きな希望であり慰めです。

 主イエスと共に十字架に付けられた強盗が二人いました。そのうちの一人はいまわの際に主イエスに向かって「イエスよ、あなたがみ国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と言った。悪事ばかりしてきた。救って下さいなどと言えなかった。思い出してくれたらいい、そう願った。今日の入信の基準から見たら信仰とは言えない。かすかなイエスに対する願い求めです。しかし、主イエスはそれを彼の信仰と見て下さり「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。救いの宣言です。あなたも神の国に入るのだと言われた。1デナリオンが与えられたのです。朝早くからの人と少しも変わらない罪の赦しと永遠の命が与えられた。救いの恵みをいただくのに遅すぎるということは決してありません。

 けれども、ここで実は考えていただきたい。主イエスの語られたこのたとえ話は人生の終わりにある人へだけ語られたのだろうか。この最後の人は、一体だれなのか。午後5時の人が示していることは時間の問題ではない。何の働きもない者ということなのです。何時間働いたかの問題ではない。何時間働いても、私たち人間の働きは救いの獲得にはならない。朝早くに来ていた人たちも、実はその1デナリオンは恵みなのです。私たちは何時間働いても、実は何の働きも出来ていないのです。このたとえ話が求めていることは、この最後の者とは「これは他ならぬ私なのだ」ということを発見することです。「この私」こそ最後の者であるということです。人生の晩年であるかどうかということではない。神の前に何の力も尽くすことの出来ない者を、神は愛して、神のものとして新しく生きる力を与えて下さるのです。人生に失敗し、やり直したいと思う人もいるかもしれない。しかし、人生はやり直しがきかないし、やり直す必要もない。神は、その人の生涯を、キリストの十字架の血で丸ごと買い取られるのです。恵みの1デナリオンによって買い切れない人生というものはないのです。