10月20日礼拝説教 「娘よ、起きなさい」

               2013年10月20日

聖書=ルカ福音書8章40-56節

娘よ、起きなさい

 

 ゲラサの町に出かけていた主イエスを人々は喜んで迎えました。そこに一人の人がやってきた。会堂長です。今日で言うと町長か村長のような立場の人です。名前はヤイロと言いました。彼はイエスに対してファリサイ派のように敵対していませんでしたが1歩距離を置いていた。その会堂長が大勢の見ている前で主イエスの足元にガバッとひれ伏した。異例な出来事です。ヤイロがこのことをしたには理由があった。「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていた」。そこで主イエスのところに来て「自分の家に来てくださるように」と願ったのです。これが彼の切実な願いでした。

 主イエスも会堂長の頼みを快く引き受けて一緒に出かけることにした。しかし、道の途中で1つの事件が起こった。それが12年間出血が止まらないで悩んでいた女性の出来事です。ヤイロは、この女性の出現と主の取り扱いの間中いらいらしていた。主イエスのなさることであり、多くの人の手前、文句を言うことは出来なかった。しかし「死にかけている私の娘の方はどうなるのだ」と思い続けていた。主イエスが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と話している時に、会堂長の家から人が来ました。恐れていたことが起こったのです。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言われた。ヤイロの切なる祈り願いは虚しくなってしまったのです。

 ヤイロにとって娘はかけがえのない宝物でした。ユダヤ社会では男子は13歳で、女性は12歳を過ぎると成人と見なされた。宝物のように育ててきた一人娘がやっと一人前になろうという時に失われてしまった。娘のために百方手を尽くした。恥を忍んで、主イエスにもお願いに来た。しかし、死は一切のピリオドです。もうどうにもならない。死という現実の前では、会堂長ヤイロの祈り求めも虚しいものになった。「遅かった」という思いで一杯だった。そして出血の病がいやされた女と主イエスに対して、何とも言えない恨みのようなものが込み上げてきたのではないでしょうか。主イエスがもう少し早く自分の願いを聴いてくれたらと思ったでしょう。

 けれども、主イエスにとって遅すぎることはない。遅すぎると考えるのは人間的な思いに過ぎません。神の時がある。主イエスは人間的に考えるなら、まったく虚しくなったと思うヤイロの祈り求めのために出かけて行きます。ヤイロに対して主イエスは言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。信仰とは出来ることを信じることではない。可能性があることを信じることではない。信じ得ない、どうにもならないところで信仰は力を持つのです。

 主イエスはヤイロの家に着きます。家の中では人々が「娘のために泣き悲しんで」いた。葬式の準備で忙しくしていた。その中で主イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」。これを聞いた人々は娘が死んだことを知っていたので「イエスをあざ笑った」。主イエスのお言葉であってもあざ笑うのが当然です。娘は死んでしまっている。人間の力ではどうしようもない。私は牧師として親しい人のお骨拾いに何十回も立ち会った。火葬されて出てくるお骨を拾いながら、本当にこの人がもう一度よみがえることがあるのだろうかと疑問に思った。牧師として不信仰だと言われたらそれまでですが、本当にそう思った。主イエスの言葉をあざ笑った人たちの気持ちがよく分かる。

 けれど、そこで忘れられていることがある。主イエスの存在が忘れられている。主イエスがそこにおられ、主イエスが語られている。主イエスには復活の命、永遠の命が委ねられているのです。復活の主がここに立っておられることを忘れて、そんなことがあるものかとあざ笑っているのです。主イエスは娘の置かれている部屋に入られました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しになりませんでした。復活の証人となる弟子たちとこの悲しみを本当に担っている両親だけが立ち会うことを許されました。そこで、「主イエスは『娘よ、起きなさい』と言われた」のです。やがてよみがえられる主イエス、復活の主が立っておられるのです。そのお方が「娘よ、起きなさい」と言われた。「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」。「娘の両親は非常に驚いた」と記されています。この驚きの中には、主イエスに対して「この方はいったいだれだろう」という畏れがあった。主イエスは死人を活かす力を持つお方です。主イエスが祈りを聞いてくださるということは死人を活かす力をもって応えてくださるということです。私たちが祈る時に、このことを確信して祈るのでなければならない。

 「もう駄目です。もう手遅れです。遅すぎます」、こういう言葉を、私たちはどれほど聞いてきたでしょう。もう私の人生は終わりです。どうしようもありません。教会についてさえも聞くことがある。この教会はどんな手当てをしてももう駄目です。私たちの教会には希望がありません。聞いていて、「黙れ」と言いたくなる。キリスト教信仰は復活信仰を核としています。復活信仰は終わりの時の死人の復活のことだけではありません。すべてが手遅れになり、すべての希望が断たれたところで、もう一度回復するという信仰なのです。「もう駄目です。手遅れです。遅すぎます」。人の祈りと希望の一切が虚しくなるところで、しかしその祈りが答えられるという信仰です。人の力が尽きるところで、復活の主が立っていてくださるのです。どんなところでも、どんな時でも、復活の主が立っていてくださること、絶望の中にも希望があることを確信して生き直すのです。