9月29日礼拝説教 「嵐に遭う時」

             2013年9月29日

聖書=ルカ福音書8章22-25節

嵐に遭う時

 

 主イエスが弟子たちに一緒に舟に乗って「湖の向こう岸に渡ろう」と言われた。この舟は主イエスと12人の弟子を乗せたら、もう一杯でした。ガリラヤ湖は南北に21㌔、東西に13㌔、面積166平方㌔の湖です。ガリラヤ渓谷という谷底にあり、周囲の三方が高い山に囲まれている。そのため気流の変化で周囲の山から強烈な風が突風として吹きやすい。この突風は地元の漁師でもなかなか予見できなかった。

 主イエスと弟子たちの乗った小舟が湖の真ん中にさしかかったところで、突風が吹き下ろして波が高くなり、舟は水をかぶり浸水し始めた。主イエスの弟子の中にはガリラヤ湖の漁師たちがいた。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレです。彼らはガリラヤ湖の漁師で生計を立ててきた。舟を操るプロです。彼らはこの湖のことはよく知っていた。しばしばこのような突風で舟が転覆し、多くの漁師の命が失われてきたこともよく知っていた。

 「知識は力である」と言われる。人間は知識と技術で困難を乗り越えて大きな進歩を遂げてきた。しかし、知識は人の希望を奪うものでもある。知識は人の力の限界をも悟らせます。ガリラヤ湖の漁師たちの湖と突風についての知識は望みを失わせるものでした。ペトロたちは舟を操ることには自信があった。港を出る時には向こう岸に渡ることなど何の造作もない。自分たちの力で十分だと張り切っていた。ところが突風に出会い、実際に舟が浸水すると慌てた。彼らの知識と経験は恐怖と絶望をもたらすものとなった。舟が「水をかぶり、危なくなった」時、「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と叫んだ」。この弟子の姿に、私たちの日常の生活を重ね合わせて見ていくことが求められている。

 突然の出来事で慌てふためくのは、湖上の弟子たちだけのことではない。形を変えて、私たちもいらいらし、悩み、慌てふためく。仕事の壁にぶつかったり、家庭問題で悩む。リストラで職を失い、この先どうして生活していいのだろうと考え込む。どうして信仰を持っていてもこんなことになってしまうのかと考え込む。人生の嵐に遭う時に、信仰を持っているとは言っても人間の弱さがあからさまになる。信仰生活で試練を受けない人は一人もいません。問題は嵐に遭った時、どうするかです。もうこんな舟に乗るのはゴメンだと言って舟から飛び降りたらもっと危険です。

 浸水し始めた時に、主イエスは眠っていた。「熟睡」と訳せる。弟子たちが危機に瀕している時に熟睡しているとは何事だと言いたい。眠っているとは何の役にも立たないことです。浸水して危なくなった時の弟子たちの不安な気持ちがよく分かる。しかし、安らかに眠っている主イエスのお姿にも驚かされる。騒然とした情景の中で熟睡しておられる。神への深い信頼があったからです。弟子たちの騒ぎの中で眠っているのは神への深い信頼の現れです。神に信頼している者の姿であると言っていい。

 弟子たちは不安と恐れで右往左往する。これが私たちの実際の生活の姿です。その中で弟子たちは叫びます。「先生、先生、おぼれそうです」と。この悲痛な叫びが大切なのです。これが祈りです。祈りというと整えられた言葉を語ることのように考えるが、本当の祈りは助けを求めての叫びなのです。詩編には試練に出会って苦しみの底から神に叫ぶ祈り、悲痛な叫び声が包み隠すことなく記されています。叫び求めこそ、祈りです。

 すると主イエスは「起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」。主イエスは弟子たちが助けを求める時に必ず応えてくださいます。これが主イエスと共にいる最も大きな祝福です。信仰者はひとりぽっちで生きるのではない。孤独で生きるのではない。いつも主イエスが共にいてくださいます。神共にいます、これが信仰の秘訣です。私たちの全生涯、キリストは共にいて、祈りに応えてくださいます。生きる時も死ぬ時もたった一人ではありません。いつも主イエスが共にいてくださいます。そして必要な時に、必要な助けを与えてくださいます。

 主イエスは弟子たちを助けてくださった後、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。この御言葉はお叱りの言葉だろうか。私は弟子たちに対する信仰教育の言葉であると理解する。弟子たちに信仰がなくなっていたのではない。主イエスを信じたから叫び求めた。主を信じていなかったら叫び求めはしなかったでしょう。この御言葉は、弟子である私たちにキリストに対する確かな信仰を求めておられるのです。この出来事を通して、主イエスは私たちに2つのことを示そうとしておられるのです。

 1つは、キリストが自然の世界をも治める全能の力を持っている神だということです。この出来事を見た弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。この奇跡を目の当たりに見た弟子たちは、主イエスが単なる人間ではない、神の力を持つお方であることを思い知らされたのです。主イエスは自然界をも治めることの出来る力を持つお方であるという事実に目が開かれたのです。

 2つは、主イエスは嘆き訴える叫びの声にいつでも耳を傾けてくださることです。「先生、先生、おぼれそうです」という叫びは、死に対する恐怖の叫びでした。このような切羽詰まった時の叫びであっても、それを祈りの言葉として受け止めて、聞き入れ、応えてくださるということです。主イエスに助けを真剣に求める者には、その叫びに応えてくださいます。恐れたり、とまどったりすることがあります。私たちは人生の中で多くの嵐と出会います。しかし、主イエスはいつも一緒にいてくださいます。私たちが泣き叫び、祈り求める声を聴いてくださり、応えてくださいます。