9月8日礼拝説教 「必ず明らかになる」

               2013年9月8日

聖書=ルカ福音書8章16-18節

必ず明らかになる

 

 この箇所は種まきの例え話と接続しています。16節に「デ」という短い接続詞があります。「それで、そして」という意味の言葉です。この接続詞があることで、この個所は主イエスの種まきの例え話説教の適用、結論部分と言っていい。御言葉を聴いて信じた者の生き方が教えられているのです。主イエスは弟子たちに「御言葉を聞き、良く守り、忍耐する」とは、どういう生き方をすることなのか、を語られているのです。

 第1は「御言葉を聞き、良く守り、忍耐して実を結ぶ」とは、光を人に見えるようにすることです。「ともし火を…入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。人々に光を見えるようにすることです。これが福音を聞いた者の使命であり、生活の基本です。キリスト者はともし火、光を持つ存在です。主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われました。真の世の光である主イエスが来られて、心の中に入ってきて、私たちは造り変えられたのです。闇を愛する存在から光の中に導き入れられ、私たちも光を持つ存在となった。キリスト者の生き方は、与えられている光を覆い隠すのではなく「入って来る人に光が見えるように」することです。これを「証しの生活」と言います。証しの生活は日常生活の中でキリストの恵みを現していくことです。「自分はキリストを信じている。そのキリストの恵みはこのようなものだ」と生活の中で示していくことです。これがキリスト者として社会の中で生きる使命なのです。

 直ぐに反論が出てくる。「私はそんなに立派な者ではありません。私はキリスト者でございますなどと人前で恥ずかしくて言えません」と。証しについて大きな誤解がある。儒教的な考え方から抜け切れず、宗教を持つことは立派な人間になることだとの暗黙の了解がある。自分で自分を見たら、決して人様に信仰者ですなどと言えないと思う。しかし、キリスト教は立派な人格者を生み出す宗教ではありません。立派な人間になって世の人の前によい品性や行いを示すことが出来るのなら、キリストはいらないのです。私たちは何を証しするのか。キリストのすばらしさ、恵み深さを表すのです。私はまことに罪深い、情けない存在でしかない。罪深く、貧弱である。しかし、この私をキリストは愛して恵みの中に生かしてくださっているということを現して行くのです。

 「証しをしなければ」という肩の力を抜いて自然体で生きることです。罪と弱さと破れとを率直に認めて、しかし、このような破れ果てた私が赦されて神の子とされているという恵みの事実を明らかにするのです。これがともし火をともすことです。罪に敗れた人間として、しかし赦された人として、赦してくださったキリストを指し示して生きるのです。これがキリスト者の社会の中で生きる使命なのです。

 次に、主イエスはこう言われます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。これは基本的に「安心しなさい」ということです。主イエスの言われた「隠れているもの」とは神の真理のことです。神の真理にせよ、人間の欺きにせよ、必ず最後には明らかになるのだという事実が語られているのです。主イエスは、神の御言葉の真理は必ず公になり、輝き出るのだとおっしゃられた。主イエスはこの種蒔きの例え話の中で、良い土地に落ちた種のあることを教えられます。それが百倍の実を結ぶのです。これが神の国の秘密です。神の言葉の種まき、つまり福音の宣教は、多くの失望するような事態である。稔りがない。しかし、その中でたった一つではあるが百倍の実をつけるものがでる。蒔かれた種がすべて稔るなら、それは人間の成功物語になってしまいます。自分が蒔いたから、私が種蒔きをしたから百倍、千倍になったと言って誇ることになるでしょう。

  神は人間の想いを超えた方法で神の恵みの御業を示そうとしておられるのです。種の多くが実るなら、福音の宣教を甘く見て人間の努力とわざを賛美してしまうことになる。福音宣教が人間の知識と計算に基づく経営の事柄となってしまう。人間の業としての宣教は失敗することを経験させられるのです。しかし、神の真理は必ず明らかにされるのです。心配するなと言われるのです。イザヤ書55章8-11節をお読みください。

 多くの失望の中でも良い地に落ちる種がある。今ここに集まっている皆さまが良い地に落ちた種の1粒1粒なのです。これは神の恵みの御業であるとしか言えない。私たちも最初から良い土地であったわけではありません。福音に心を閉ざしていたこともあった。途中で信仰など止めようかとも思った。富や快楽に身をゆだねたこともあった。その中で私たちに信仰が芽生え、信仰が守られてきた。それは神の御言葉の種自体の力であることです。御言葉に力がある。御言葉と共に神の御霊が働いてくださった。

 神ご自身が御言葉を用いて働いてくださいます。それには力ある御言葉の働きのじゃまをしないことです。灯りを隠したりする人はいない。しかし、私たちは神の真理の光を平気で覆ってしまう。福音宣教の困難な状況を何とかしなければならないと心配してしまう。光はそこにあるにもかかわらず、私たちがよけいなことをして神の自由な働きを覆っているのではないでしょうか。私たちが神をお助けしなければいけないとの思いに駆られる。神がなさるなら、弱さもまた必要なことなのです。私たちは弱さが現れると、その弱さに覆いをかけてしまう。宗教的な熱心によってさえも、神の光が覆われてしまうことがある。神の御言葉の力は必ず公になり、光り輝いてくださいます。神の真理の光に覆いをかけないことです。