9月1日礼拝説教 「神の言葉をどう聴くか」

                  2013年9月1日

聖書=ルカ福音書8章4-15節

神の言葉をどう聴くか

 

 主イエスのもとに「大勢の群衆が集まって」来た。この光景は主イエスが大衆伝道者として成功を収めたと見ることもできる。主はこの時に聴衆をおだてるようなことをなさらなかった。主イエスは群衆に例え話を語られました。だれでもよく分かる話です。けれど、この話は本当に分かりやすいものか。後に弟子たちが主に「このたとえはどんな意味かと尋ねた」。弟子たちが分からなかった。時折、「イエス様は分かる話をしておられた」と、現代の牧師たちの説教の分かりづらさと比べて批判的に言われることがある。確かにイエス様の話はわかりやすい。それでは主イエスの話を実際に聞いた人々は本当に話が分かったのか。本当に分かっていたら、イエスを十字架に付けるということは起こらなかったでしょう。

 例え話は情景描写みたいなもの。実際の情景を描いているので話し自体はよく分かる。問題はそこからです。ここには神の言葉をどう聴くかとの聴く者の責任が語られている。主イエスの解き明かしに従って例え話を学ぶ。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われ、その「種は神の言葉である」。種を蒔く人はキリストご自身とキリストが遣わされる伝道者たちです。伝道者たちによって御言葉の種が蒔かれます。しかし、蒔かれた種がすべて順調に育つのではない。神の言葉の種が生長するには、その種を受けとめた人の心の土壌が問われるのです。性質や才能は変えることは困難ですが、心の態度は変えることが出来る。自分の心の状況を自己点検しながら、この主イエスの解説を聞かねばならないのです。

 第1は「ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった」。何もしないで傍観しているような人です。神の言葉を受け入れることは変化をもたらします。変化が怖くて心を閉じている。閉ざされた心の状態では、御言葉の種が蒔かれても芽を出すことは出来ません。神の言葉に心を開いて行かねばならない。第2は「石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった」。石地でも薄い砂のような土はある。種は芽を出すが、根を張ることが出来ない。迫害や試練という困難が起こると信仰を失ってしまう。信仰には困難が付き物であることを受け止めなければならない。第3は「茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった」。地味が悪いわけではない。ところが茨がふさいだ。その茨とは「人生の思い煩いや富や快楽」です。芽を出し根も出るが、茨や雑草が丈高く繁茂している。御言葉の種は十分に日光を受けて成長することが出来ない。信仰生活が始まるが、地位も高くなり財産も貯まると教会から遠ざかっていく。富と神とに兼ね仕える二股かけた信仰はいつか崩れます。

 主イエスは、神の言葉を受けとめる3つの心の状態を描きます。3つの心の在り方は、当時のユダヤ人の中にあった。同時に、今日の日本人の心の風景でもある。神の言葉の種蒔き、福音の伝道がなされている。にもかかわらず、御言葉の種が実らずにいる淋しい光景です。遠藤周作が言うように、日本は福音の種を腐らせてしまう底なしの泥沼のような国なのかと考え込んでしまう。この例え話は失望を与えるためのものなのか。決してそうではありません。主イエスは最後に大きな希望を与えてくれます。「良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」人たちのいることです。ここに日本宣教の希望がある。「立派な善い心で」とは、人間的な立派さではない。御言葉に対するソフトな心です。開かれた心です。処女マリアが「お言葉どおりにこの身になりますように」と語った信頼する心です。御言葉に信頼する心が「良い土地」なのです。

 ここで注意することがある。誰さんは道端、誰さんは石地、誰が茨の中であると詮索しないことです。誰一人、そのような裁き合いは出来ないのです。自分の胸に手を置いて考えると、私たちの心の中にはこれらの道端も石地も茨の地も混在している。だれも最初から「良い土地」と言える心の状態を持ち合わせてはいない。当時のパレスチナの農業方法は極めておおざっぱでした。直播きという方法です。農夫は、先ず畑にするところに一斉に種を蒔きます。その後に耕して種を鋤込んでいく。そのため、後に道になるようなところに種が落ちることもある。石地に種が落ちることもある。茨のままのところに種が落ちることもある。生産性が悪かったと言えばその通りです。主イエスは当時の農業の方法に例えて、神の言葉の宣教の課題を示めしておられるのです。神は効率主義で福音の種蒔きをなさるのではない。人間的に見るとまことに無駄の多い方法で、しかも聞く人たちの心が作り変えられるような方法で福音の種蒔きをされるのです。これが神の知恵なのです。最初から良い土地はないのです。ほとんどの土地が道端、石地、茨の地であるところに福音の種が蒔かれて、その種が鋤込まれて良い土地となっていく。福音の宣教には希望があるのです。

 ここに神の国の秘密がある。神の言葉は多く広く語られねばなりません。多くの伝道者によって種蒔きがなされ続けます。多くの種は虚しくなるように思える。しかし、がっかりしてはならない。もともと神に背を向けている罪深い心の姿です。その罪人の心を変えてくださいます。神は御言葉の種を蒔いて、その御言葉と共に聖霊を与えて御言葉を心の中に鋤込んでくださいます。道端、石地、茨の地である人の心を、御言葉と共に働く聖霊によって造り変えてくださいます。聖霊によって造り変えられて、御言葉を聞いて信じ、信頼して、良く守り、忍耐して百倍の実を結ぶ人に変えてくださいます。時間がかかり、忍耐が求められます。しかし、豊かな実りが約束されているのです。