8月11日礼拝説教 「平和を実現する人々」

               2013年8月11日

聖書=マタイ福音書5章1-12節

平和を実現する人々

 

 今日、平和を語ることは、国の在り方を批判することだという風潮が出てきています。戦後日本の平和を維持してきた憲法が改悪されようとしています。平和を語ることを遠慮する風潮が教会の中でも強くなっています。しかし、どのような時代になっても私たちは「平和」を求め、平和を造りだし、平和を追い求めていくことを決意せねばならないと思っています。私は数年前に「リフォームド神学事典」の翻訳出版に携わりました。その中に「平和」の項目があります。訳して改めて「平和」を考える良い機会になりました。この「平和」の項目を思い起こしながらお話ししたい。

 キリスト教では「義戦論」という考え方が古くからあります。正義の戦争という考え方です。他の紛争解決手段がない場合、国家は戦争をする権利を持つという考えです。これはアウグスチヌスに起源を持ち、宗教改革者カルヴァンもその考え方を受け継ぎました。それを受け継いだウェストミンスター信仰告白も「正義の戦争」を語ります。ウェストミンスター信仰告白第23章「国家的為政者」第2項「新約のもとにある今でも、正しい、またやむを得ない場合には、合法的に戦争を行うこともあり得る」と記す。このため改革派・長老派教会では、戦争それ自体を拒否してきませんでした。この問題が今日の私たち日本の教会にもある。改革派教会の牧師でも、この「合法的戦争」について理解が分かれています。

 実はアメリカの長老派教会もウェストミンスター信仰告白を採っており、長く「合法的戦争」を主張してきた。しかし、第2次大戦後、特にベトナム戦争後に、戦争と平和についての大きな転換が起こったと「リフォームド神学事典」は記します。戦争の残虐性、戦争の恐ろしさ、戦争の非道徳性から、戦争についての根本的な疑い、疑義が起こり、ついにアメリカの長老派教会・改革派教会はそれぞれの総大会で、次々に「戦争は不正義である」と宣言して、国にベトナムからの撤退を要求したのです。

 実際にはまだまだ浸透していないけれど、舵は大きく切られていると言っていいでしょう。アウグスチヌス以来の国家神学的な主張から考えるのではなく、改めて聖書から、聖書は「平和」について何を言っているかを学び直そうとしています。私たちの改革派教会もウェストミンスター信仰告白にどうあるかではなく、根本的に聖書がどう語っているかというところに立ち戻って考えていかねばならないのです。

 平和を考える時、聖書から教えられねばならない。十戒の第六の戒めです。「あなたは殺してはならない」。私たちはどこかで「正当な殺し」を模索するのです。「もし、侵略されたら」、「もし、愛する者が襲われたら」、「そんな時には相手を殺しても仕方がない」と考える。極限状況を考えて、そういう時にはこの戒めから除外されると考える。戦争やテロが起こっている時、人の想いは「正当な軍備」、「正当な戦争」へと傾いていく。これが今までの「合法的戦争」を産み出してきた背景です。しかし、神はきわめて単純に「殺してはならない」と言われます。状況説明も条件も語られていません。「こんな場合は殺してもよい」などとは言われていません。どんな状況であっても、人を殺すならこの戒めによって責任が問われます。

 世の多くの人は、人の命の尊さを語ります。しかし、「なぜ、人の命が尊いのか」についてはほとんど説明がありません。むしろ説明できないと言っていいでしょう。人の命の尊さについての明確な説明は聖書の中にあります。創世記1章27節「神はご自分にかたどって人を創造された」と記されています。「神にかたどって」、「神の形に」ということです。神と向き合って、神と交わりをすることです。これが人格を持つということです。神と人格的な交わりをすることができる、これこそ人間なのです。人格は神と向き合うだけでなく、人とも向き合うのです。

 「あなたは殺してはならない」という戒めは、人は神の形であるということが大前提になっています。人の堕落の結果、この最も基本的なこと、人が神の形として造られたことが忘れられ、神と向き合う神の形が崩れ失われ、ないがしろにされてきた。人が神の形であることが忘れられたところで、憎しみ、いさかい、相手に対する否定、抹殺が産み出されたのです。

 この人間の罪の歴史を背景にして、イエス・キリストの救いがなされました。神の救い、つまりイエス・キリストの十字架によってなされた罪の贖いは、人が神と向き合って生きる神の形の回復です。救いとは、キリストによる贖いによって義と聖とが回復して、神との交わりに生きることです。聖書では、この救いを神との平和、シャロームと言い表しています。神との間にある安らぎの状態です。同時に、このシャロームは、人と人との関係、人間同士の良好な関係、争いのない状態を示す言葉でもあります。主イエスが救い主としてなしてくださったことが、このシャローム・平和なのです。罪の赦しによる神との平和、それに基づく人と人との平和、この2つは切り離して考えることはできません。

 長い間、キリスト教会は、この2つを切り離してきたのではないかと思っています。本来、教会の福音宣教、伝道は魂の救いだけのメッセージではありません。福音において、神との平和と共に、人と人との平和、隣人との許し合いとしての平和が語られ、求められていかねばならないのです。主イエスの和解の御業を人間の魂の領域だけに閉じ込めてはならない。本当に人と人との関わり、国と国との関わり、民族と民族との関わりの中にも神の和解、シャロームを追い求めていくことが求められているのです。平和を求めて生きることがキリスト者としての召し、召命なのです。