2013年7月28日
聖書=ルカ福音書7章36-50節
多くを赦された者
ラビと呼ばれていた律法の教師を家に招いて教えを聞くことが習慣的に行われていた。ファリサイ派のシモンも、主イエスを食事に招いた。しかし、シモンの接待は尊敬する人を招いた時のものではなかった。主イエスを客として招きながら歓迎の口づけをしない。足を洗うための水も出さない。大事な客には頭に香油を振りかけて迎えるのですが、そのようなこともない。ファリサイ派のシモンの腹の内は、イエスという男は世間が言うような本物の預言者なのかどうか値踏みしてやろう、正体を見抜いてやるという底意地の悪さがある。その気持ちが出迎えの様子に現れていた。
「イエスはその家に入って食事の席に着かれた」。そこに町で知らぬ者のないほど有名な罪深い女性が入ってきた。おそらく遊女であったでしょう。ラビが家に招かれる時、招かれていない人たちも自由に家の中に入って聴講することが認められていた。そのため、彼女は招かれざる客ではあったが追い出されることなくこの場に入ってくることが出来たのです。
この女性と主イエスとは、ここで初めて出会ったのではないようです。最初から主イエスのために香油の入った石膏の壺を持って来ていることを見ると、彼女はすでに主イエスから福音の言葉を聴いていたことは間違いありません。ある人は、二人の出会いはカファルナウムの町の徴税人レビの家での宴会の席ではなかったかと推測しています。そこでは徴税人や罪人と言われる人が大勢招かれていた。そこで主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われた。この御言葉が彼女の心の中にしみいるように入ったのではないでしょうか。彼女は自分が罪人であり、キリストによって罪赦され、いやされたことを悟ったのでしょう。罪の赦しの恵みを実感していてのです。
ところが家の中に入り、主イエスの足もとを見た時、シモンの非礼に驚いたのです。埃にまみれたまま、まだ洗われていない主イエスの足を見た時、彼女の感情は抑えることの出来ないものとなった。自分を愛して罪を赦してくださった主イエスに対する感謝と愛が一気にほとばしり出た。彼女は人目も気にせず「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。主イエスもまた彼女のなすがままに任せておられます。一幅の絵になる感動的な光景です。この光景を見て飛び上がるほど驚いたのはシモンでした。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」と心の中で叫んだのです。この女にこんなことをさせているイエスは、預言者にしては人を見抜く洞察力が欠け、律法の教師としては聖さを堅く保つべきだ。どちらにしても失格だ、と。主イエスは彼の思いを聞き取られます。「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われます。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた」。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオン。1デナリオンは労働者一日の賃金で1万円とすると、500万円と50万円となる。二人とも「返す金がなかった」。ここにポイントの1つがある。50万や500万くらいのお金、今日の日本人から言えば返済が難しいと言えるほどの金額ではない。しかし、実際に返すことが出来なかった。それほど貧しかった。この借金は罪の負債を意味しています。人が神に対して負っている負い目はそう大したものとは思わない。ほんの少し努力すれば償えるのではないか。それが500デナリオン、50デナリオンです。簡単に返せるようです。しかし、実際には返せない。人間は罪に対してまことに貧しく弱い。ほんの少しの罪と思っていても、罪の負債は私たちの努力ではどうにもならない。そこで両者ともに「赦してやった」のです。
500と50の違いはどういうことなのか。これが第2のポイントです。この違いは本人の罪に対する自覚の問題です。罪深い女は自分が本当に罪人であることを深く自覚していた。自分の今までの生き方が人の道から外れていた、神の御心に背いていたということを誰よりも深く悟っていた。それに対してファリサイ派のシモンは違っていた。彼は自分は神の掟をことごとく守っていると考えていた。主イエスを客として招いても足を洗う水も出さず、頭に注ぐべき香油も出さない非礼を行いながらも、それを罪とは感じていない。むしろ、自分のどこに罪があるのかと居直り、罪を赦してもらう必要など深く考えなかったのです。
主イエスはシモンに「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と尋ねられた。シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、主イエスは「そのとおりだ」と言われます。「多く赦された者が、多く愛する」。これがこの例え話の結論です。うっかりすると逆の読み方をする場合がある。彼女がファリサイ派のシモンよりも主イエスを多く愛した。シモンがしなかった歓迎の奉仕を彼女が献身的に行った。その愛の行為の故に多くの罪が赦されたのだと誤解しがちです。彼女の大きな愛の行為の故に赦されたのではない。先ず彼女は多く赦されたのです。彼女は自分のすべての罪、赦されざるすべての罪が赦されたと実感した。その赦しの恵みの実感が彼女の愛の行為を産み出したのです。主イエスはこの女性に「あなたの罪は赦された」と言われた。新改訳「あなたの罪は赦されています」が適訳。ここで初めて赦されたのではない。もうすでに赦されている。その赦しの確認の言葉です。宗教改革者ルターは、この罪の女の姿は赦しの恵みに生きる教会そのものだと語ります。