7月21日礼拝説教 「笛吹けど踊らぬ時代」

                 2013年7月21日

聖書=ルカ福音書7章24-35節

笛吹けど踊らぬ時代

 

 「笛吹けど踊らぬ時代」とは、「冷めた時代」です。私は60年安保の前年に高校を卒業し、70年安保の年に神学校を卒業しました。激しく争う政治の時代、また学園闘争の時代でした。神学部が廃止になり、牧師になることを止め学園闘争に身を挺した人も多くいました。何かを変えなければならないと、ある意味で熱い時代でした。

 今日は対照的と言っていいほど冷めています。私たちの生活と国のあり方を支えてきた日本国憲法が改悪される危機的な状況の中でも、何も起こらない。福島原発事故で15万以上の人が故郷を失っても何も起こらない。だれも真剣に怒らない。政権交代の夢に失望した人たちは経済成長を約束してくれる政党に大きく傾いて、危機感などまったく感じられません。冷めた時代の中での伝道と教会の形成は困難を極めると言っていいでしょう。人の心が冷めています。驚きがない。熱がないのです。

 この箇所には福音を伝えられた人の反応が記されています。洗礼者ヨハネの伝道は一面では成功した。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」。ヨハネのもとに集まって来たのは下層階級と言ってよい人たちでした。ヨハネのもとに来て、悔い改めの洗礼を受けたのです。しかし、大多数は違っていた。主イエスはヨハネの伝道を受け入れなかった人が大勢いたことを指摘します。「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」と。本来、先ず悔い改め、一緒に救い主到来の準備に励むべき宗教的指導者たちがヨハネを拒んだのです。そして彼らによって指導されていたユダヤの多くの人がヨハネを拒んだのです。

 主イエスは、洗礼者ヨハネの伝道を拒んだ人々の精神がやがて主イエスご自身を拒否することを知っておられました。主イエスは、時代の人々の精神を街の広場で遊んでいる子らの歌に例えているのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」。「ごっこ遊び」です。子供たちははじめ結婚式のようなお祝いの真似事をしようと、リーダーが賑やかに笛を吹いた。けれども誰も乗ってこない。そこでリーダーは葬式ごっこをしようとしたが、これにも仲間は乗ってくれなかったとブツブツ言っている歌です。

 この歌には、ユダヤ人の時代精神が表されています。この時代、ユダヤ人たちは快適な安定した生活を望んでいました。ところが洗礼者ヨハネはその時代の人々の期待に応えてくれません。ヨハネは厳しい禁欲的な悔い改めのメッセージを語り、人心を不安定にしたのです。そのため、だれもヨハネに振り向かない。次に、人々は主イエスの登場に期待した。ところが主イエスには威厳や厳粛さといったものがない。イエスは徴税人や罪人たちの仲間になって飲んだり食べたりしている、となじる。ユダヤの人々は洗礼者ヨハネも受け入れませんでした。また、主イエスも受け入れないのです。主イエスは、子どもの歌によって時代の人々の無感動の姿を描いているのです。これは決してこの時代の人たちだけのことではありません。

 どうして、このような事態になったのでしょうか。原因の第1は、誤った宗教理解、あるいは勝手な宗教観です。しかし、もっと基本にあるのは物事に真剣に取り組もうとしない虚無主義、ニヒリズムです。ファリサイ派と律法学者の中には、洗礼者ヨハネに対しても、主イエスに対しても「驚きがない」ことです。ヨハネがどんなに厳しいことを語っても、まあそんなもんだと思う。主イエスが新しく神の言葉を語っても新鮮さを感じない。本質的を見ないで、まあそんなもんだろうと言って片づけてしまう。

 物事に真剣に正面から取り組まない、物事を真剣に見ようとしない。適当に生きているから、何が起きても驚かないのです。今日、私たちの周囲も何が起きても驚かない時代になっています。警官が泥棒し、消防士が火付けをし、母親が我が子を殺しても、深い驚きも嘆きもなくなってしまっている。伝道者が声をからして福音を語っても、聞かれない時代です。

 ここに主イエスの深い悲しみ、嘆きがあるのです。主イエスは言われました。「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と。この「知恵」とは神の知恵です。神はその知恵、ご計画によってヨハネを派遣し、主イエスを救い主として送られたのです。ところが、その神の知恵はどの時代の人々にも受け入れられない、拒絶される。しかし、キリストのなさったことが正しいことであった、主イエスの語られたことが正しいことであったと、やがて証明されます。その証明をするのはキリストに従って生きる人たちです。キリスト者の存在、キリスト者の生きる姿勢が、キリストの御言葉と働きの正しいことを証明するのだと言われたのです。キリスト者は存在そのものが、熱い存在なのです。神の知恵によって踊りを踊る人なのです。熱い人なのです。

 驚きも感動もなくした時代の中で、救い主がおられることを驚きと喜びをもって証しする人がいる。私たち信徒の存在です。ダビデはエルサレムに神の箱を迎え入れた時に舞い踊りました。人が「王ともあろう人が」と言って笑う中で、喜び踊って神の箱のエルサレム入りを歓迎した。なりふり構わず、喜びと感動を表した。キリスト者は日本ではまことに少数ですが、キリストの出来事に真剣に驚き、キリストの御言葉に真剣に従って生きようと願っています。私たちは熱くならねばならない。冷めた時代の中で神を信じる者の存在こそ神の知恵なのです。私たちは主の恵みを力強く歌い、毎日の生活の中で喜びと感動をもって主を証言してまいりたい。