7月7日礼拝説教 「わたしにつまずくな」

                    2013年7月7日

聖書=ルカ福音書7章18-23節

わたしにつまずくな

 

 今朝は「つまずき」と言うことを念頭に置いてお話します。教会の中で「つまずき」という言葉が使われます。例えば「牧師や教会の役員たちにつまずいた」というように使われます。求道者や教会員が教会を去る時に「…さんにつまずいた」と言えば、その一言で教会は青菜に塩のようになってしまう恐るべき言葉です。

 しかし、聖書自身が大きなつまずきの石を置いている。パウロはⅠコリント書1章23節で「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの」と記している。十字架のキリストとかキリストの処女降誕、復活などが多くの人にとってつまずきと言われています。そこである人たちはつまずきをなくし、出来るだけ多くの人に受け入れられやすいキリスト教を造り上げようとします。キリストの奇跡や誕生、復活などは神話だ、昔話だ。科学的な世界に生きている現代人はもう信じなくてもいいのですよ、と言う人も現れています。

 はっきり申し上げねばなりません。つまずきの中には取り除いてはならないものがある。つまずきとなるものを全部取り除いて障害物のないバリアフリーのキリスト教にすることではない。つまずきとは、先入観や偏見のとりこになるところで起こる。先入観をもって見る時にキリストにつまずく。ある偏見を持って牧師や信徒を見るところでつまずきが起こる。キリスト教はこういうものだ、牧師はこうあるべきだという前理解が問題なのです。つまずきの原因を取り除こうと涙ぐましい努力をすることではなく、大切なことは正しくキリストを提示して偏見を正して上げることです。

 「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」。このヨハネは、洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは今、獄中にいます。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの不義を糾弾したため、ヘロデ・アンティパスはヨハネを捕らえて、マケラスという砦の中の牢獄に入れてしまった。ヨハネの弟子たちが面会に行き、主イエスのことを報告した。重い皮膚病の人の癒し、平地の説教、百人隊長のしもべの癒し、やもめの息子のよみがえりなど、主イエスが語られ、行って来たことを報告した。ところが、その報告を聞いた「ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた」。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。「来たるべき方」とはメシアのことです。洗礼者ヨハネはイエスこそ、神の小羊、真のメシア・キリストとして世の人々に紹介した。しかし、今、そのヨハネが牢獄の中で苦悩している。イエスが本当にメシアなのか、という大きな疑問をもったのです。イエスにつまずいたのです。

 洗礼者ヨハネはイエスを救い主として世に紹介し、イエスを世に送り出した。ところが期待したようなめざましい神の国は来ない。火をもって悪しき者たちを焼き払うような出来事はやっていない。モーセの時代に行われた紅海を2つに裂くような出来事は起こらない。イエスはめざましい出来事を何もしていないのです。牢獄は孤独です。いろいろなことを考え想像し、悶々と一人苦しむ。洗礼者ヨハネほどの人でも、主イエスに対する信頼が揺らいだのです。

 弟子たちによって伝えられた主イエスの事柄はすばらしいことのように思う。しかし、それらのことは旧約時代にもあったことです。重い皮膚病の人を癒したり、死人を生き返らす程度のことは旧約の預言者エリヤもエリシャも行っている。主イエスについての民衆の評判も「大預言者が我々の間に現れた」という程度のことだ。洗礼者ヨハネがイエスに期待していたことは違うのです。驚くべきことは何も起こっていない。イエスが行っているのは旧約の預言者たちが行っていた程度のことではないか。イエスは、本当にキリストなのかという深刻な疑念が起こったのです。

 主イエスは、この洗礼者ヨハネの疑念に対して正面から受け止めてくださいました。主はこうお答えになります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。主イエスが答えられたことは、洗礼者ヨハネが期待していたものとまったく違うものでした。天地を驚かすようなものではない。事態は何も変わっていない。闇の力がなお支配しているように見える。しかし、そのような中で神の恵みの支配は確かに来ているのです。シモンのしゅうとめに生きる喜びを与え、重い皮膚病の人を清めて悩みから解放し、中風の人をいやして立たせ、ナインのやもめ女の一人息子をよみがえらせて生きる希望を与えられました。福音書はこのような主イエスの足跡と御業とを詳しく記している。この出来事が人の口から口に伝えられていくのです。

 人がいやされ、魂が健やかにされ、福音が聞かれている、これが神の到来、救い主の到来の確かな足音なのです。このような神の到来の足音を聞くためには信仰が必要です。信仰の目と耳が必要とされている。主イエスの働きの中に救い主のみ声と力、その支配を目を覚まして読み取り、聞き取っていかねばならない。信仰とは、主イエスの御言葉と御業によって救い主が今ここに来ておられることを確認することです。「わたしにつまずかない人は幸いである」と、主は言われました。この言葉は洗礼者ヨハネに対してと同様に、今日の私たちに対しても語られているのです。洗礼者ヨハネと同じようにつまずきを覚える私たちに対して語られているのです。