6月30日礼拝説教 「もう泣かなくともよい」

                  2013年6月30日

聖書=ルカ福音書7章11-17節

もう泣かなくともよい

 

 信仰は私たちの悲しい時、苦難の時に大きな慰めと力、生きる希望を与えてくれます。キリストにあって慰めと希望を与えられるのでなければ、私たちの信仰は無益なのではないでしょうか。キリスト教信仰は人生の悲しみの時に真実の慰めと力を与えてくれるのです。

 主イエスとその一行はナインの町の門のところで葬儀の列と出会いました。門の前の広場を通って町囲いの外にある墓地に行こうとしていた。主イエスはその棺の傍らにひっそりと付き添う一人の女性に目を留められた。「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって」と記されています。この棺の中の人がこの女性の一人息子であり、この女性がやもめであると、誰が主イエスに教えたのでしょう。主イエスご自身がこの女性の身に起こった悲しみの出来事を見て取られたのです。人は言うに言えない事情を抱えています。説明しても分かってもらえないことがある。深い悲しみなどは語り尽くすことは出来ない。しかし、主イエスは私たちの悲しみや辛さを直ぐに察してくださいます。この女性が夫に先立たれて女手一つで一人息子を育て上げてきた。息子が成人して「若者」と呼ばれる年齢になったことまで、主は察してくださった。その一人息子が死んでしまった。病気であったのか事故であったのかは判らないが、彼女の生きがいであり希望であった息子が奪われてしまった。主イエスはこの母のうめき声を聞き取ってくださったのです。

 第1に受け止めることは、主イエスの憐れみ、深い同情です。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。「憐れに思う」という言葉は訳すのに難しい言葉です。元は「内臓」を意味する語から出た言葉で「はらわたが千切れる」「はらわたまで突き動かされる」という意味の言葉です。切なる憐れみの情です。主イエスは心底からこの母の悲しみを思いやり、憐れみ、「もう泣かなくともよい」と言われた。

 考えてみれば「泣かなくともよい」とは不思議な言葉です。悲しみに遭った人には「泣くがいい」、「泣きたいだけ泣きなさい」と言う以外ない。人は泣くことによって悲しみが浄化され、癒される。私たちに出来ることは一緒に棺に取りすがって一緒に泣いて上げることです。しかし主イエスは「もう泣かなくともよい」、「泣き続けるな」とおっしゃいます。主イエスは人の気持ちがお分かりにならないのか。決してそうではありません。主イエスは心底からこの女性に対して悲しみを思いやり、深い同情をもって言われたのです。それは主イエスに出会うならば、もはや泣かなくてもよいからです。主イエスは死に勝利するお方だからです。

 第2に見るべきことは、主イエスの御言葉の力です。主は「近づいて棺に手を触れられ」ました。すると「担いでいる人たちは立ち止ま」りました。主はもう墓へ行く必要はないと言われたかのようです。人々の視線は主イエスに集中します。主イエスはあたかも生きている人に呼びかけるように「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。皆さんはどう思いますか。葬儀の列の多くの人々がこの言葉を聞いたのです。ざわめきが起こり、あざけりの言葉が交わされたでしょう。「馬鹿だな。もう死んでしまっているんだ。何も起こりはしない」と。

 しかし、主イエスのお言葉で驚くべき出来事が起こった。棺の中の「死人は起き上がってものを言い始めた」。主イエスのお言葉は、お母さんが朝、寝ている子を「さあ、起きなさいよ」と起こすような自然な呼びかけです。キリストの御言葉には力があります。死の力も陰府の力も、キリストの御言葉の力には勝つことは出来ません。キリストの中に神の力、永遠の命の力があるからです。主イエスは御言葉の力をもって、この若者を死人の中から立ち上がらせたのです。私たちは命は自分のものと考える。しかし、それは大きな間違いです。命は人の所有物ではなく、神のみ手の中にあるのです。その神の力を持つお方が「起きなさい」と言われるところで死人は生き返るのです。命が与えられるのです。

 第3に見なければならないことは、母と子の生きた関係の回復です。「イエスは息子をその母親にお返しになった」のです。母親の言葉や動作は何一つ記されていませんが、主イエスが見ておられるのは「彼女の嘆き」です。その嘆きは愛する息子と引き離されたことです。息子が母親の語りかけに応答しないことが致命的、決定的な嘆きでした。考えてみれば死は人と人との関係を断ち切る出来事です。しかし、親しい交わりが断ち切られるのは決して肉体の死だけではありません。親子の間、夫婦の間で人間的な絆が断ちきられ、引き離されている。今日、親の語りかけをかたくなに拒む子供たちによって、親の心はすでに死を経験していると言ってもよい。家庭の不和や親子の断絶の中で、心が死んでしまうようなことを体験しているのではないでしょうか。

 主イエスはそのような人間疎外の中で嘆き、呻く親の心、人の心をも見てくださいます。そして命の御言葉を語りかけてくださいます。主イエスは今までもの言わぬ存在であった人を、もの言う存在に変え、交わりの中に回復してくださいます。夫と妻、親と子が、もの言わぬ冷え切った関係になっている家庭が多くある。主イエスはこのような嘆きの中に近づいて来てくださり、互いに語り合いをする生きた人間関係に戻してくださるのです。主イエスは、息子を生きた言葉を語る人として母の手にお返しになり、生きた関係を回復してくださった。母と子という関係が主イエスの恵みによって回復したのです。「もう泣かなくともよい」のです。