6月23日礼拝説教 「お言葉をください」

                 2013年6月23日

聖書=ルカ福音書7章1-10節

お言葉をください

 

 主イエスは再びガリラヤ湖畔のカファルナウムの町にお帰りになりました。カファルナウムはガリラヤ湖畔の風光明媚なところで、交通の便もよく徴税所が置かれ、ローマ軍の部隊が駐屯していました。ここに百人隊長という人が登場します。ローマ軍の構成の基本が百人隊でした。60~70人で1つの部隊を作り、百人隊と呼んでいました。百人隊の指揮官、百人隊長は下級士官です。

 カファルナウムに駐屯していた百人隊長はたいへん優れた、また人情味のある人でした。私財をはたいて会堂を建ててあげたということですから、ユダヤ教に改宗してはいなかったが、会堂の礼拝には異邦人ではあっても出席していたでしょう。この百人隊長は「部下が、病気で死にかかる」と、主イエスに助けを求めるほどの人でした。「部下」と訳した言葉は誤訳に近い問題のある翻訳です。口語訳では「しもべ」と訳しました。「部下」では百人隊の隊員、兵士になります。8節の「部下」は「兵士」を指しますが、2節と10節の「部下」は百人隊長の個人的な世話をするための奴隷、しもべなのです。百人隊長にとって「頼みにしていた大事な人」です。

 ローマでは奴隷は生ける道具でした。人権は認められず物として扱われました。病気や年をとって役立たなくなった奴隷は犬や猫を捨てるように捨てられ、路上で死を待つのが普通でした。この百人隊長はしもべを大切に扱った。このしもべを子供の時から引き取り我が子同様に育ててきた。しもべもこの百人隊長になついて世話をしてきた。そのしもべが今、重い病気で死にかかっていた。病気になっても見捨てなかった。人間的な暖かさは直接的に信仰とは関わりのないことですが、しかし、神を信じる者にはこのような暖かさが備わっているのです。

 主イエスがカファルナウムに帰って来たことを知りました。そこで彼は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」。ユダヤ人の長老たちも快く請け合った。主イエスも快く受け止められて「一緒に出かけられた」。ここまでは暖かな人格の持ち主である百人隊長にかかわるエピソードです。ところが主イエスが自分の家に来てくださると聞いた百人隊長はあわてて「主よ、御足労には及びません」と言わせた。これは当時のユダヤ人、特にファリサイ派の人たちの異邦人との交際の実際を知っていたからでしょう。ファリサイ派の人たちは異邦人の家に出入りしたら夕方まで汚れると考えていた。主イエスをそんな目に遭わすことはできない。そう考えたのです。

 それでは、百人隊長は主イエスに何を求めたのでしょう。お言葉を求めたのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。百人隊長は友人を通してこのように言ったのです。

 主イエスはこの言葉を聞いて非常に感心して言われます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。主イエスに「これほどの信仰を見たことがない」と言わしめた信仰とは何だったのか。第1は、彼のへりくだりです。へりくだり、謙遜とは人格的在り方と理解されます。しかし、キリスト教では「へりくだり」は信仰的在り方なのです。百人隊長は「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言います。ユダヤ人のためにあれもした、これもした、だから助けていただいて当然と胸を張るのではなかった。自分は異邦人で神の救いを受ける値打ちのない者ですという罪人の自覚です。へりくだりとは、罪人の自覚と深くかかわるのです。

 第2に、百人隊長は主イエスの御言葉の力を認めたことです。百人隊長は言葉の力というものを軍隊の中で会得したのです。軍隊は上官の命令が力を持つ世界です。隊長の命令はローマ皇帝の権威と法の裏付けによって実施されるのです。最も典型的に言葉が力を持つ世界です。ですから、百人隊長は主イエスが「救われよ」、「いやされよ」とおっしゃれば、その通りになると確信した。主イエスが「いやされよ」と一言おっしゃれば、例えどんなに離れていても必ず実現するのだと確信した。ここに幸いな信仰があります。キリストのお言葉の力に対する信頼があります。これが信仰なのです。キリストのお言葉に対する素直な信頼です。キリストのお言葉は必ず実現し成就するという信仰です。

 実はキリストのお言葉に対する信頼の奥に、深い洞察に基づく信仰があることを見逃してはならない。その言葉を語られる主イエスというお方がキリスト、神の御子であるという信仰です。上官である百人隊長の命令の効力も、その背後にローマ皇帝の代理という権威があるから力を持つのです。百人隊長は、主イエスのお言葉が必ず実現する力のある言葉であると確信しました。それは主イエスが単なる人間ではないということを確信していたからです。百人隊長は、主イエスの中に神を見ていたと言っていいでしょう。主イエスが、神共にいますお方であることに気付いていた。お言葉の力への信頼とは、その言葉を語られたお方と切り離しては考えられないのです。お言葉一つでしもべはいやされると確信したのです。そして事実、そのようになったのです。主イエスを真の神の御子、神共にいますお方と信じるところで、主イエスのお言葉は私たちに対しても同じように力を振るって、私たちをいやし、生きる力を与えてくださいます。