5月12日礼拝説教 「愛に生きる力」

              2013年5月12日

聖書=ルカ福音書6章27-38節

愛に生きる力

 

 「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、主イエスは言われます。ここで語られていることは、キリストに従って行くことを願っている人の生き方、生活の在り方です。

 「敵を愛しなさい」という言葉が2回印象深く語られています。この御言葉が、この箇所の主題です。この場合の「敵」とは、どういう人のことでしょう。ユダヤ人にとって隣人とは同胞イスラエルであり、敵とは隣人ではない異邦人、他国人でした。主イエスはそのような見方で「隣人」と「敵」を区別しません。いろいろな言い方で「敵」とはどういう人なのかを語っておられます。「あなたがたを憎む者」「悪口を言う者」「侮辱する者」「頬を打つ者」「上着を奪い取る者」「強奪する人」です。人種や民族的な意味はありません。キリストの弟子として生きようと願う人をあざ笑い、迫害する人が敵なのです。キリストを信じて生きる時に、このような人に出会うことになる。あざけられ、苦しめられ、馬鹿にされる。キリストを信じる者は、このような目に遭うのだ。主イエスを信じたばかりに馬鹿にされ、家族にからかわれ、惨めな境遇に導かれるのです。

 問題はそのような中に置かれた時に、私たちはどうするのか。主イエスは「彼らに祝福を祈りなさい」と命じておられます。彼らのために「親切にし」「祈り」「拒まず」「与えなさい」と積極的な生き方が勧められている。マタイ福音書では、この「祈り」「拒まず」「与えなさい」という生き方が旧約の同態復讐法との対比で語られています。ルカ福音書も同じです。同態復讐法の反対が語られているのです。同態復讐法とは、やられたらやり返すことです。やられたらやり返す・報復は、この世の大原則と言っていい。この世の裁判を支える大きな柱はこの報復の思想です。「目には目を、歯には歯を」という同態復讐法は古代の裁判思想です。実は近代的な装いをしているが今日でも基本的には同態復讐法から少しも進んではいない。主イエスは先ず、キリストに従う者にこの同態復讐法を乗り越えることを求めておられるのです。「敵を愛すること」が神の国の大原則なのです。

 また人間は、「愛」の中でも報いを求めているのです。お返しのあることを期待しての愛なのです。あるご婦人が教会に駆け込んできました。聖書もよく読んでおられた方です。息子さんが最近結婚したけれど、相手の奥さんの方にべったりで、私の方には電話もかけてこない。一人息子だから、ああもしてやった、こうもしてやった。ところが結婚したら何も言ってこない。どうなっているんだ、と。母親の愛情は最も純粋度が高いと言われるのですが、この方の場合は報われることを期待しての愛情であった。

 主イエスがここで語る「敵を愛しなさい」とか、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している」と言われた時の「愛」は、自己犠牲の愛なのです。アガペーの愛です。お返しや報われることを期待しての愛ではない。一方的に捧げる愛なのです。私たちは「そんなことは割に合わない。割に合わないことは損だ」と思ってしまいます。頬を打たれたら痛いし、上着を奪う者に下着をも差し出すのは大きな損害だと思ってしまう。

 なぜ、耐えに耐えて愛を貫かねばならないのでしょうか。なぜ、ここで正義を主張できないのか。なぜ、当然の権利を主張できないのか。そう考える時もあります。主イエスはここで深い想いを込めて神の報いを語られているのです。神は天におられます。その神が私たちの信仰に生きる姿を見ておられる。その神が豊かに報いてくださるのです。その報いは決して将来、天国で与えられるというだけのことではない。もうすでに今、与えられ始めている。それは私たちが神の子となることです。神の子として、今すでに神の祝福を豊かにいただいているのです。

 主イエスは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言われました。先ず神の憐れみがある。これこそ、主イエス・キリストにおいて示された神の愛なのです。このキリストにおいて示された神の愛をしっかりと見つめ受け止めるところで、主イエスのおっしゃったことが合点がいくのです。天の父がキリストにおいて私たちを愛してくださった。その時、私たちはどういう存在であったのか。罪の中に生きていました。神の敵と言われていた。この個所に記されている敵の行いは、よく考えれば神から離れた私たち人間の姿なのです。

 ところが神の敵であった私たちのために、父なる神は御子であるお方を遣わしてくださいました。神の敵であった私たち罪人を徹底的に愛し抜いてくださいました。そして贖いをしてくださったのです。ここに神の愛があります。キリストはののしられてもののしり返さず、御自身を与えられたのです。やっつけられてもやり返さなかった主が、十字架において痛み、苦しみ、贖いをされたのです。キリストにおいて、「敵を愛しなさい」というお言葉が実現しているのです。この事実をしっかりと見つめねばなりません。キリスト者は、このキリストを見上げて生きるのです。

 私たちをまことの愛に生かす力は、キリストにおいて現された神の愛をしっかりと受け止めるところにあります。これだけが私たちを愛に生かす力なのです。キリストにおいて示された神の愛に感謝して生きるところで、私たちも敵を愛し祈る者へと造り変えられるのです。この地上での私たちの愛がどれほど貧しく拙くとも、私たちを生かしているのはキリストの十字架の愛です。ここに立つところで相手のために本当に祈る心が生まれてくる。キリストに従う者にこのような生き方を求められているのです。