4月28日礼拝説教 「いつわりの幸福」

                  2013年4月28日

聖書=ルカ福音書6章20-26節

いつわりの幸福

 

 詩の形で口調よく整えられた「平地の説教」は、どんな目的で語られたのか。主イエスは民衆と弟子との両方を視野に入れて語っている。私は平地の説教は、主イエスの新しい信仰、後にキリスト教信仰と言われる教えの立教趣意書のようなもの、主イエスによる「新しい信仰の宣言」だと理解しています。主イエスは使徒を選び出して群れの組織を整えました。これから弟子たちと一緒にユダヤ教とは異なる新しい信仰を伝えていく。新しい信仰ではあるが旧約にしっかり根ざしている。しかしユダヤ教とは異なる信仰の理解、人生観を示された。ですから、主イエスは繰り返し口調よくお語りになり、弟子たちも主の教えの言葉として記憶した。これが平地の説教、あるいは山上の説教となったのです。

 この平地の説教の根底にあるのは第1に価値観、人生観の問題です。主イエスは回りに集まる民衆と主イエスの弟子たちに「あなたがたは、なにを目当てに生きるのか、何を人生の大切なものとして考えているのか」と、問いかけているのです。神の民であるイスラエルが、今や神から離れている。あなたがたは本当に神を人生の基準、人生の基軸にしているのか。そうではないのではないか、と問われている。人生かけて求めているのは、富むこと、満腹すること、得意になって笑うこと、多くの人から褒められ評価されることなのではないのか、と言っているのです。

 富むこと、豊かになること、人に評価されることは信仰とは関わらないように思える。しかし、人は富んだり、豊かになることにより神から離れていく。繁栄は多くの人たちの求めるところです。イスラエルだけのことでなく、今日の私たちの求めるところです。昨年末、民主党から自民党に政権が変わりました。アベノミクスというものが発表されて大盤振る舞いの景気対策が語られると、株価は急上昇し政府の支持率は高まっている。その影に隠れている原発に対する姿勢とか、憲法改悪の姿勢については、何も問おうとしていません。景気さえよくなればいい、富んで豊かになればそれでいいというのが、日本人の人生観だと言っていいかもしれない。これは神から離れた人間の基本的な価値観で生き方です。無神論的な生き方、無神論的人生観と言っていい。人を傷つけてもかまわない、落伍者を産み出しても気にしない、故郷喪失になってもかまわない、心の病に陥る人がいてもかまわない。弱肉強食の世界が現れてくるのです。

このような生き方に対して、主イエスは警告を語られている。「違うぞ」と。この世の人生観に従って生きることは不幸なこと、災いなのだ、と。「不幸である」と訳された言葉は「ウーアイ」です。「ウー」とか「アー」という痛みや嘆きを表す間投詞に由来する言葉です。これらは神を信じて生きる者の道ではない。神を信じて生きる者は、これらのことが「災い」なのだと知らねばならないのです。貧しい人や飢えている人に神から祝福の報いがあるように、富んでいる人、豊かな人、人の評価を求めて生きる人には、やはり神の報いがあるのだ、神の処置、神の審きがあるのだということです。この主イエスの警告を真剣に受け止めなければならない。

この平地の説教の根底にあるのは、第2に神理解です。キリスト教人生観の奥には主なる神ヤハウェをどのようなお方と理解するか、神観が問われるのです。人生観の根底には神理解がある。あなたは、どのような神を信じているのか、と。聖書の神、主なる神ヤハウェは小さなもの、力の乏しいものをあえて選んで愛する神です。申命記7章6-7節「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。主なる神ヤハウェは小さなもの、貧弱なものを選んで愛する神です。これがイスラエルを選んで愛された神です。

 それに対して、旧約の歴史の中で繁栄と豊かさを約束したのは偶像の神バールとアシュトレトでした。「富んでいる人」、「今満腹している人々」は、神を信じているように見えるが、実は主なる神ヤハウェから離れてしまっているのだ。バール、アシュトレトという偶像の神々の信仰者なのだということです。お金や食料や頼るべきものをたくさん持ち、現状で満足している。すべてに満たされています。権力もあります。ほしいものは何でも手に入れることが出来る。これは幸いな人に思えますが、実はまことに哀れな人です。生けるまことの神に頼ろうとしない。神など必要としない。これこそ「あー災いなるかな」です。

主イエスは、このような繁栄を目差して生きる生き方に対して、旧約の預言者たちの生き方を示しているのです。旧約の預言者たちが基本的に語ったことは、生けるまことの神に帰れということでした。神の御心を求めて生きろということでした。イスラエルの民は、神に帰れと激しく語る預言者を無視し、迫害し、殺してしまった。反対に、王宮の人たちや富める者たちの要求を受け入れて言葉巧みに「平安、平安」と語ったのが、偽預言者たちでした。偽預言者は繁栄の預言者です。イスラエルの民は主なる神を信じているようだが、その信仰から離れてしまっている。実は繁栄の神バールとアシュトレトの信徒なのだと、主イエスは預言者のあり方を指し示して、あなたがたはどちらに付くのだと語っているのです。

 まさに今、私たちの心は現状で満足してしまっているのではないでしょうか。満腹している。これは災いだと言わなければなりません。小さなもの、貧弱なものを選んで愛してくださる主なる神ヤハウェを信じる信仰に立って、この神の御心を求めることを人生の基本にしてまいりたい。