4月21日伝道開始記念礼拝説教 「泣くことの幸い」

                  2013年4月21日

聖書=ルカ福音書6章17-23節

泣くことの幸い

 

 ここに記されている主イエスのお言葉はマタイ福音書5章にも記されています。マタイ福音書では、主は山に登られています。聴衆は主イエスと一緒に山に登ってきた弟子たちです。そのため「山上の垂訓」「山上の説教」と言われてきた。ルカ福音書では状況設定が違っています。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」。主イエスは山の上で使徒を選び出され、それから弟子たちを連れて「山から下りて、平らな所にお立ちになった」。このため「平地の説教」と言われる。聴衆は弟子たちだけではなく、「おびただしい民衆」もです。主イエスは多くの人を意識しつつ、弟子たちにも語られている。これがルカ福音書の状況設定です。ここから主イエスのメッセージを読み解いていかねばならないのです。

 主イエスが「平らなところにお立ちになった」とは、ただ平坦な場所に立ったということではない。「平らなところ」とは、人の生活の場ということです。世俗のちまた、修羅のちまたと言っていい。悩み、疲れ、病み、困窮しきった人々の生活の場所です。主イエスは山上で使徒を選任したが、山にとどまることなく、弟子たちと共に人々の生活の場に立たれた。主イエスが山から戻ると、多くの人が待ち構えていたように取り囲んだ。ここに記されているのは切羽詰まった民衆の姿です。病む人々、生活に困窮する人々、希望のない時代の中で困惑しきった人々、これらの人々がユダヤの津津浦々から主イエスの周りに詰めかけた。「ティルスやシドン」とは地中海沿岸のフェニキヤ人の町です。異邦人も主イエスを求めて集まっていた。切羽詰まり、困窮し、悲しみ歎くのはユダヤ人だけではなかった。

 この人たちに対して、主イエスは神の言葉を語られました。教会が立つのはここです。物理的な場所のことではない。主イエスが立っておられるこの場所が教会が立つところです。主イエスは人が生きて悩んでいるそのところで、み言葉を語り、いやされたのです。今日、教会はどこに立っているでしょうか。今の時代の民衆の悲しみと困窮を見ているでしょうか。この時代の人たちにいやしを与えているでしょうか。彼らに届く神の言葉を語っているでしょうか。教会の伝道不振は、教会が立つべきところに立っていない。立つところを間違えているのではないか、教会は見るべき状況を見ていないのではないかと、私は考えています。

 これらの人を見ながら、主イエスは不思議な言葉を語られます。「貧しい人々は、幸いである」、「今飢えている人々は、幸いである」、「今泣いている人々は、幸いである」。「ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。実に不思議な言葉です。皆さん、そう思いませんか。牧師をしていると、人の深刻な悲しみに出会うことがある。愛する者が急病になったり、家族の誰かが亡くなったりする。その悲しみのところにお訪ねしてみ言葉を語るのが牧師の務めであると、私は考えています。しかし、その悲しみのところ、例えば愛する者を亡くした家族のところに行って、「おめでとう、今泣いている人々は、幸いである」と言ったとしたら、その後どうなるか。あの牧師は非常識だと非難されるでしょう。

 世界のあちこちで戦いがあり、家を焼かれ、食物もなく難民キャンプで過ごす人たちがいる。そのところに行って「今飢えている人々は、幸いである」と語ることが出来るでしょうか。もし語ったとしたら、半殺しの目に遭うかもしれない。大震災で家族を失い、仕事を失い、悲嘆の中にいる人がいる。放射能汚染で故郷を失っている人がいる。その人たちのところへ出かけていって「今泣いている人々は、幸いである」と語ることが出来るでしょうか。私には語れません。

 主イエスが語られたこれらの言葉は、私などには到底語ることの出来ない言葉です。私が語ることの出来るのは、飢えないで生きることは幸いだ、泣かないで生きることが出来れば幸いだということではないでしょうか。これは私だけではなく、誰であってもそうでしょう。その意味では、この主イエスのお言葉は普通の人間には口にすることの出来ない言葉なのではないでしょうか。たった一人の例外であるお方を除いては、口にすることの出来ない言葉です。しかし、位置を変えて、私たち自身が悲しみの中に身を置いて考える時に、このみ言葉は大きな慰めを与えてくれるのです。私たちが貧しく途方に暮れた時、悲しみに泣く時、これらの言葉は実に豊かな慰めを与えてくれる。その意味で、この主イエスのみ言葉は不思議な言葉なのです。私たちには語り得ない言葉ですが、私たちが悲しむ時には大きな慰めとなる言葉なのです。

 このみ言葉は、実は神がいますというところから考えていかねば理解できない言葉です。神を信じること、神がいますことを考えなければ分からないのです。しかし、神いますというところから考えると理解できる。非常識とも言える言葉を、祝福として語ることの出来る主イエスのお姿が記されているのです。普通であったら非常識と思われる言葉を、慰めに満ちた言葉として語りうることの出来るお方が主イエス・キリストなのです。このお方の言葉として、この不思議な言葉を受け止めていくのです。このお方の言葉として受け止めるときに、事柄の意味が変わるのです。主イエスは、なぜこれらの人たちが幸いなのかをきちんと説明しておられます。神が応えてくださるということです。「神の国はあなたがたのものである」と言われました。神の国とは神の支配です。神がその人を捉えて、神がその人を活かしてくださるということです。今、生きているところで、神が共にいてくださり、神の国の恵みに生かされるのです。