4月7日礼拝説教 「使徒の選任」

                    2013年4月7日

聖書=ルカ福音書6章12~16節

使徒の選任

 

 ルカ福音書は祈りの福音書と言われ、祈りが強調されています。祈る主イエスのお姿が明瞭に描かれている。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」。この時の主イエスの祈りは特別なものでした。ある課題を担って一人徹夜で祈りをされた。主イエスは大きな課題を抱えた時には、人を避けて神に祈られました。私たちも主イエスにならって大きな課題を抱えた時には人を避けて真剣に祈りをしなければならない。人と相談する前に、先ず神に祈ることを忘れてはならない。

 この時に主イエスが抱えておられた課題は使徒を選び出すことでした。「使徒、アポストロス」とは、「遣わされた者」という一般名詞です。しかし、キリスト教会で「使徒」は重要な意味を持っています。キリストの証人としてキリストの十字架と復活の出来事を直接証言する人のことです。キリストの出来事を間違いなく宣べ伝えて教会を建て上げる人、キリスト教会の土台となる人です。キリスト教会にとって最も大事な特別な役員であり指導者です。主イエスが抱えておられた大きな課題は将来のキリスト教会を指導する重大な使命を担う使徒を選び出すことでした。

 今日の教会でも同じであると言っていい。どのような人が教会の役員として選ばれるかによって教会が大きく左右されます。古代教会では長老を選出する時には、選挙がなされる前1週間、教会員全体に断食しての祈りが求められた。ただ食物を断つだけのことではない。祈りに集中することです。教会員が祈りを積み重ねて神のみ心を求めて、教会に相応しい監督・長老を選び出した。私たちの教会も何年か先のことですが長老・執事を選出して教会設立をしていかねばなりません。最初に選び出される役員に将来の教会の方向性がゆだねられるのです。どのような方がふさわしいのか、私たちも祈りをもって神の御心を求めて行かねばならないのです。

 その時に大事なことは神の御心に従うことです。祈りは神の御心を求めることであり、その御心に服従することです。私たちは「ああしてください」「こうしてください」と、好き勝手とも言える願いを祈る。それも祈りですが、祈りの最も大切なことは神の御心を求めることと、その御心に服従する決断をすることです。祈りとは自分の意志や願いに逆らって神の支配を求めることです。激しい自己との戦いです。自分の願いや自分の好みとの戦い、自分の意志との戦いです。「御心をなさせ給え」とは、深い意味で自分の欲望や欲求、自我との戦いなのです。

 使徒を選び出す時に、主イエスは父なる神の御心を求め、その御心の確立を願ったのです。教会は神が御子の血をもって贖い出された神の教会です。神の御心こそ教会において確立し貫かれなければならない。主イエスの徹夜の祈りは、そのためのものでした。祈り終えた主は「朝になると弟子たちを呼び集め」ました。山の上です。どのくらいの弟子たちが集められたのか分かりませんが、12人だけではなかったようです。数十人の弟子たちが集まってきたのではないでしょうか。その中で、主イエスは祈りの結果として12人を選び出しました。主イエスは弟子たちの前に立たれて、「シモンよ、前に出なさい。アンデレよ、前に出なさい」と、一人ひとりの名を呼んで選び出されたのではないでしょうか。息も止まるほどの厳粛な場面です。そして、12人に「使徒」という名を付けられました。新約の教会がここに始まったのです。最初の任職式、任命式と言っていい。新約の教会の最も大切な土台となるべき使徒の任職がなされたのです。

 主イエスの徹夜の祈りによって選び出された12人は、この世的に見たら決して優れた人物ではない。筆頭に挙げられたシモン・ペトロは無学なガリラヤ湖の漁師に過ぎない。ユダヤ人は律法の民です。律法を教えることが指導者たる資格であった。一介の漁師に過ぎない者が律法を教えることが出来るだろうか。アンデレ、ヤコブ、ヨハネも同じガリラヤ湖の漁師です。マタイがいます。彼はレビと呼ばれていた徴税人です。ユダヤ人が売国奴と見て毛嫌いしていた元徴税人が神の民の指導者として受け入れられるだろうか。熱心党のシモンという名前がある。熱心党とはローマ帝国とヘロデ王家を倒してユダヤ独立を勝ち取ろうとしていた熱狂的愛国者グループです。穏健な一般人からは危険人物と見られていた。

 もう一つの評価基準がある。有用度、貢献度と言っていいで。今日、親しまれている物差しです。この物差しで測っても疑問が多い。12人の中で福音書や使徒言行録の中で活躍した弟子はごく限られている。ペトロやヨハネ、マタイ、あるいはトマスなどは有名ですが、使徒リストの中にだけ名前が登場する人も多い。それだけでなく、後に裏切り者となったイスカリオテのユダも選ばれている。彼が使徒として選ばれたのはまことに謎と言っていい。しかし、ユダの選びも神の御心なのです。

主イエスが徹夜で祈って選び出した人の中に、なぜユダのような裏切る者も入っていたのだろうか。本当のところは謎です。しかし、主イエスは決して優れた者、エリートを選び出したのではない。彼らは決して優れた素質や才能の故に選ばれたのでもなかった。むしろ、選ばれるに値しない者があえて選ばれたのです。それは神の愛と憐れみが現されるためでありました。ここに神の知恵があります。12人は一度選ばれたら、もう絶対裏切ることのないロボットでも操り人形としてでもなく、まったく自由な存在として選ばれたのです。その意味で、私たちの代表者です。しかし、主イエスはこのような欠けある者たちのために十字架にかかり、彼らが使徒して生き抜くことが出来るようにと祈り続けられたのです。