3月24日礼拝説教 「罪人の一人に数えられ」

                    2013年3月24日

聖書=イザヤ書53章1-12節

罪人の一人に数えられ

 

 イエス・キリストの受難を覚える礼拝です。イザヤ書53章から御言葉を学びます。新約聖書の中で多くの旧約引用があります。最も多いのがイザヤ書53章です。主イエス御自身がしばしばイザヤ書53章を印象的に用いられたからと言っていいでしょう。イザヤ書53章は「しもべの歌」と言われます。この「しもべ」が誰のことを指すのか、いろいろな議論がある。主イエスは御自分がこの世に遣わされた使命と深くかかわらせてこの個所をお読みになられた。苦難のしもべをご自分の救い主としての使命、果たすべき大切な務めとして受け止められたのです。

 イザヤ書53章を貫く中心的な主題は「本当の救い主とは」です。52:10「主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」と述べています。「すべての人が仰ぎ見る」、「神の救い」とはどのような救いなのかが、53章で語られている。イザヤ書53章が記されたのは、イスラエルの人々がバビロンに捕らえ移された頃のことです。紀元前586年、ユダとエルサレムはバビロニアに破れ、1万人くらいの成人男子がバビロンの地に移され強制労働に就かされた。この捕囚の民はやがて解放されて、もう一度カナンの地に帰ることを願っていた。そうした希望を満たすように紀元前550年、ペルシャ王クロスがバビロンを打ち破り、イスラエルの人々を解放し故郷への帰還を許した。イザヤ書53章はこのような時代の中で、神が預言者に新しいことを語られたのです。

 バビロン捕囚の間、捕囚の民が考えたのは巨大なバビロニアの権力をくつがえし自由を与えてくれる民族解放でした。それが救いでした。その意味で、バビロニアを打ち破ったペルシャ王クロスを神が与えて下さった救い主と見なしたこともあった。しかしイスラエルの人々は直ぐにペルシャ王クロスに失望し幻滅した。それはペルシャ王クロスもバビロンの王に劣らぬ征服者に過ぎなかったからです。繰り返し幻滅を味わった。また、自分たちユダヤの民のダビデ家の子孫からダビデ王の再来と言うべき英雄の生まれることも待望した。しかし、そんなものは夢に過ぎないし、例え実現しても再び分裂王国の歴史を繰り返すだけのものでしょう。そのような中で預言者は神が与えてくれる救いは何かを、神に問い、そして神によって示されたのが、この「苦難を受けるしもべ」の姿でした。

 1節「わたしたちの聞いたことを信じえようか。主の御腕力を誰に示されたことがあろうか」と、問いから始まります。「わたしたちの聞いたこと」つまり預言者が神から聞いた事柄がある。しかし、これをいったい誰が信じるだろうか、誰にも信じてもらえないだろう、といぶかり、首をかしげる。それほど人の考える救いの道と、神が示して下さった救いとが違っているからです。そうして、神が預言者に示された救い主の姿が紡ぎ出されていく。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」。見捨てられた苦難の人の登場です。彼は王宮で多くの人にかしずかれて生まれたのではなかった。その辿った道は美しさや威厳とは関係なく、悲しみを担い、ただ傷付くだけのような生涯であった。人に捨てられる経験を持ち、病を知り、人々から忌み嫌われた。

 その中で1つ言えることは、この人は「主の前に若枝のように育ったのだ」ということです。普通、苦しみに遭う人は「神も仏もあるものか」と神から離れて罪を犯してしまう。けれどこの人は徹頭徹尾、その生涯を神の前にあって生き抜いたのだと言う。この苦難の人の最後の姿が描かれています。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、…彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」。終始一貫、この人は悪しき者として裁かれ、悪人として処分され、悪人と共に墓に入れられた、と言います。

 預言者はこの中で繰り返し、悪人として処分され殺されたこの人の苦しみは「わたしたちのためであった」と語る。普通なら「あの人はよっぽど悪いことをしたんだろう」と考えるかもしれない。ところが預言者は語る。そうではない。彼の苦しみは「わたしたちの背き、わたしたちの咎のためだ」と言う。4節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」、5節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」。彼の悲しみと苦しみは徹底的に「わたしたちのため」と代理者としてのものであった、と預言者は語るのです。

 しかも預言者は、このしもべを打ち砕くことが「主が望まれ」たことであり、主なる神が彼を悩まされ打ち砕かれたのだと言う。しもべの苦しみ、この人の悲しみ、この人の死と葬りにおいて見るべきものは、ここに「神のみ旨」があることです。預言者は「わたしたち」に平安といやしを与えて下さるために、神ご自身が「しもべ」と言われる苦難の人を遣わして、苦しみに会わせたのだと語っている。自ら傷を負って苦しむ人を示して、神はここに「わたしたちの救い」があると示しているのです。預言者は救いを、ダビデ王の再来にもペルシャ王クロスにも見ていない。全く違う別の道を歩んだ人、見るべき威厳も栄光もない苦難の人の中にまことの救い主を示して、このような救い主の姿を誰が信じるだろうかと言っている。主イエスは、これがわたしの歩む道、成就すべき道だと言われたのです。